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大仏再建の歴史 人気観光地へ

「東大寺」の大仏は、二度の兵火により焼け落ちるも再興され、奈良を象徴する存在となっている。江戸中期、日本中から大勢の人々が奈良を訪れ、「猿沢池」などを含めた「南都八景」は名所となり、観光用の絵図が作成されるなど、観光地として著しい発展を遂げた。


江戸時代に大仏再興、奈良のシンボルへ MAP __

「東大寺」の「大仏殿」と大仏は、「源平合戦(南都焼討)」後、鎌倉時代に再建されるも、戦国時代の「三好・松永の乱」で再び焼失、焼損した。江戸時代に僧の公慶が江戸幕府の許可を得て、全国で勧進を行い費用を集めたことで再興され、1692(元禄5)年に「大仏開眼供養」が行われた。勧進では、江戸や上方(京大坂)で宝物などを公開する「出開帳(でがいちょう)」を実施していたため、注目を浴びた。「大仏殿」の造営、諸寺の修復はその後も続き、1709(宝永6)年に「大仏殿落慶大法要」が盛大に行われた。【画像は明治後期】

現在の大仏は奈良・鎌倉・江戸と幾度も直されてきたため、部分ごとに修復の時代が異なる。

「南都八景」の一つ「猿沢池」 MAP __

「猿沢池」は、749(天平21)年、「興福寺」の放生会(ほうじょうえ)のために造られた人工池。「猿沢池」越しに見える「興福寺」の「五重塔」との景観が美しく、池の水に月が映る様子は江戸時代に定着した「南都八景」の一つ「猿沢池月(さるさわいけのつき)」として親しまれた。なお、そのほかの「南都八景」は「東大寺鐘(とうだいじのかね)」「三笠山雪(みかさやまのゆき)」「春日野鹿(かすがののしか)」「南円堂藤(なんえんどうのふじ)」「佐保川蛍(さほがわのほたる)」「雲居坂雨(くもいざかのあめ)」「轟橋旅人(とどろきばしのたびびと)」であった。【画像は明治後期】

「猿沢池」の周辺は「猿沢池園地」となり、石段「五十二段」などが整備されている。写真では「興福寺」の「南円堂」が見える。

江戸時代の観光地図『和州奈良之図』

江戸時代には、「伊勢参り」や巡礼を目的とした旅行が庶民の間にも広がった。上方(京大坂)から伊勢への旅の様子を描いた上方落語『東の旅(伊勢参宮神乃賑)』のように、旅の途中に奈良に立ち寄る人も多かった。奈良では絵図(地図)の専門業者も現れるようになった。図は1844(天保15)年に発行された『和州奈良之図』。発行元の「絵図屋庄八」は江戸時代の大仏再興開始とほぼ同時期、1684(貞享元)年に創業している。上が東を示し、中心の「興福寺」の横には「奈良奉行所」が描かれ、少し離れた東に「東大寺・大仏殿」が確認できる。「西大寺」「法隆寺」「小泉」などの名所を実際の距離よりも接近して示し、里数を加えて位置関係を表すなど、本図には名所案内用として、旅行者の利用度を高める工夫が盛り込まれている。【画像は江戸後期】


荒廃の街から観光地への再生

江戸時代に再建された「東大寺」の「南大門」

江戸時代に再建された「東大寺」の「南大門」【画像は昭和戦前期】
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784(延暦3)年、「長岡京」への遷都が行われ、「平城京」は都の地位を失った。その後、810(弘仁元)年に平城上皇により、「平城遷都」が企てられたものの失敗に終わり、奈良に都が再び戻ることはなかった。

平安時代になると、「平城宮」跡地の一部は、農地となった。平安時代末期、日本各地で繰り広げられた源氏と平家の合戦では、「興福寺」など奈良の寺院は反平家の立場を取った。奈良の地も合戦の舞台となり、1180(治承4)年、平清盛が差し向けた武将・平重衡の軍勢の手で「南都焼討」が行われ「東大寺」「興福寺」などの多くの伽藍が焼失した。「大仏殿」や大仏もこの時に焼け落ち、鎌倉時代に再建されることになる。

戦国時代の1567(永禄10)年には「三好・松永の乱」が起こった。松永久秀の軍勢は「東大寺」の「大仏殿」に陣を構えていた三好勢に夜討ちを仕掛け、「南大門」周辺で銃撃戦が繰り広げられた。この時も多くの建造物が焼失し、大仏も原型を留めないほどに溶け崩れた。その後、約120年間にわたり再興されることはなく、大仏は雨ざらしにされていた。

江戸時代、貞享年間から宝永年間になって「東大寺」の大仏、「大仏殿」の再興がようやく進み、多くの人や物資が諸国から奈良に集められた。また「伊勢参り」にあわせて、近隣諸国から参詣客が訪れることも増えた。大仏の再興で全国の人々の目を再び奈良に向けさせることとなり、庶民にも旅行が広がったため、奈良では、絵図や地図が発行されるようになっていった。


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