写真でひもとく街の成り立ち

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名古屋は、東海地方の中心都市であり、日本を代表する大都市の一つである。江戸時代には、徳川御三家の一つ、尾張家の城下町として発展したが、その前には、織田信長、豊臣秀吉、加藤清正ら多くの戦国武将を生んだ場所でもあった。また、東海地方の交通の要として「名古屋」駅を核とした道路整備、街づくりが行われた。現在の名古屋市内にある「熱田神宮」、「名古屋城」、「徳川美術館」などは、全国的な名所、観光スポットとして知られている。歴史を振り返れば、折々に開催された博覧会、共進会がこの街を発展させた。また、「松坂屋(いとう呉服店)」、「ノリタケ」、「トヨタ自動車」などの企業が全国に進出していった。
草薙神剣を祀る 日本武尊ゆかりの社 MAP 1
113(景行天皇43)年の創祀と伝わる「熱田神宮」の主祭神は熱田大神で、スサノオ(素戔嗚尊)やヤマトタケル(日本武尊)ゆかりの「三種の神器」のひとつ「草薙神剣(くさなぎのみつるぎ)」を祀る神社として知られている。お膝元の熱田町は1907(明治40)年、名古屋市の一部となった。(画像は大正期)
都会の中にありながら、「熱田神宮」には深い緑の森があり、荘厳な雰囲気が漂う。
尾張徳川家の居城 名古屋城 金の鯱で有名 MAP 2
江戸時代には、「尾張名古屋は城でもつ」と、「伊勢音頭」に歌われた尾張徳川家の居城。「大坂城」、「熊本城」とともに天下の三名城と呼ばれた。明治維新後は名古屋鎮台が置かれ、その後は陸軍の第三師団の本部があった。(画像は昭和前期)
江戸から続く名古屋のシンボルで、現在も名古屋観光の拠点となっている。
碁盤割の城下町の守護神 朝日神社 MAP 3
「清洲越し」とは、江戸時代初期の「名古屋城」築城に際して行われた清洲(城)から名古屋への都市の移転である。これにより、碁盤割の城下町が出来上がった。「朝日神社」もこの「清洲越し」で、清洲城下の朝日郷から現在の錦三丁目に遷座した。(画像は明治後期)
ビルに囲まれた栄の中心地にあり、都会のオアシスともいえる「朝日神社」。
大須観音 観音霊場に門前町が発達 MAP 4
地名・駅名の由来となった「大須観音」は、慶長年間に徳川家康により、尾張(現・岐阜県)の大須から移された。周辺は門前町として発展、大正時代になると「大須商店街」が誕生し、繁華街としてさらに賑わうようになった。(画像は明治後期)
名古屋の下町として知られる、大須観音周辺の賑わいは今も昔も変わらない。戦災で焼失した本堂は1970(昭和45)年に再建されている。
名古屋開府の際に開削 舟運で賑わう堀川 MAP 5
堀川は、当時海に面していた熱田と「名古屋城」を結ぶ物流の要として1610(慶長15)年に開削された。米や、塩、木材などの物資を運ぶだけでなく、人々の交通手段としても、堀川の舟運は重要な役割を果たした。また、桜が咲き誇る名所としても有名で、憩いの場としても人々に親しまれた。(画像は1880(明治13)年)
夏には「堀川まつり」が開催され、多くの人で賑わう。
東海道41番目の宿場 美濃路の分岐点 MAP 6
「熱田神宮」の門前町、「七里の渡し」の港町でもあった東海道の宿場町「宮(熱田)宿」は、「七里の渡し」の迂回路である佐屋街道や、中山道の垂井へと抜ける美濃路との分岐点でもあり、江戸時代には人口1万人を超える東海道最大の宿場町であった。(画像は明治中期)
「七里の渡し」があった付近は現在、「宮の渡し公園」として整備されている。
熱田港から名古屋港へ 戦後は国際港に MAP 7
東海道にあった「七里の渡し」の時代から、熱田港は名古屋の外港の役割を果たしてきた。その後、大型船寄港のための工事が行われ、1907(明治40)年に熱田町が名古屋市に合併し、「名古屋港」と改称した。(画像は昭和前期)
長期にわたる整備によって拡大し、日本最大規模の港となった「名古屋港」。動と静が調和した海岸風景が広がっている。
名古屋の水上輸送路 港と笹島貨物駅を結ぶ中川運河 MAP 8
「名古屋港」と「笹島貨物」駅(廃止、現・「ささしまライブ24」)の間を結ぶ運河として、1930(昭和5)年に開削された。幹線のほかに北支線、東支線があり、総延長は10.3kmに及ぶ。(画像は昭和前期)
名古屋における水上輸送の中心を担った「中川運河」。物流量は大きく減少したが、現在、運河の歴史を踏まえ、新たな価値や役割を見据えた「中川運河再生計画」が進められている。
「笹島」駅と呼ばれた初代駅 MAP 9
置かれた地から「笹島」駅とも呼ばれた初代の「名古屋(開業時は名護屋停車場)」駅は1886(明治19)年に誕生した。その後、東京・神戸間を結ぶ東海道線の主要駅となり、関西鉄道(現・JR関西本線)も乗り入れた。(画像は明治後期)
現在の「名古屋」駅の南にあたる旧「名古屋」駅(笹島)付近には、「名鉄レジャック」などのビルがある。
1937年、現在地に移転 新名古屋駅 MAP 10
「名古屋汎太平洋平和博覧会」の開催に合わせて、1937(昭和12)年、「名古屋」駅は旧駅(笹島)の北西約500メートルの現在地に移転した。この駅舎は地上6階、地下1階で、当時は東洋一の規模を誇った。(画像は昭和前期)
新しい駅ビル・JRセントラルタワーズなどが林立する、現在の「名古屋」駅桜通口周辺。
名古屋城のお堀を走る「お堀電車」 MAP 11
名鉄瀬戸線は、1905(明治38)年に「瀬戸自動鉄道」として、矢田・瀬戸(現・尾張瀬戸)間が開業している(翌年に「瀬戸電気鉄道(瀬戸電)」へ改称、大曽根まで延伸)。当時は陶磁器製品や資材の運搬も行われており、1911(明治44)年には、堀川を運航する貨物船との積み替えができるように、「名古屋城」の外堀跡を使い「堀川」駅まで延伸され、「お堀電車」とも呼ばれるようになった。1976(昭和51)年には外堀の区間が廃止され、その後「栄町」駅へ地下区間で延伸されている。(画像は1962(昭和37)年)
写真の「大津町」駅跡には、現在でも外堀跡の中にあった駅に向かう階段が残されている。
堀川七橋の一つ 明治の鉄橋に市電が走る MAP 12
「納屋橋」は1610(慶長15)年頃に架けられた「堀川七橋」の一つで、当初は木橋であった。1913(大正2)年、鋼製アーチ橋に架け替えられ、長く名古屋市民に親しまれた。(画像は大正期)
現在の「納屋橋」にも、前代の橋の面影を残すアーチが取り付けられ、欄干には開削を行った福島正則の家紋が施されている。現在の橋は1981(昭和56)年の架橋。
東西を走る「広小路通」 百貨店が賑わいを生む MAP 13
明治にできた「御園座」をはじめ、大正期に「十一屋(現・「丸栄」)」、戦後には「オリエンタル中村(現・「名古屋三越」)」などが「広小路通」に移転した。市電が走っていた頃の、多くの人々が行き交う様子は、「銀ブラ」になぞらえて「広ブラ」と称された。(画像は昭和前期)
「名古屋」駅地区と栄地区を結ぶ「広小路通」は名古屋のメインストリートの一つとなった。夏には、名古屋の夏の風物詩である「広小路夏祭り」が開かれ、多くの人が訪れる。
名古屋駅の移転で開通 平成には地下鉄が走る MAP 14
「名古屋」駅から東に伸びる「桜通」は、1936(昭和11)年に「名古屋」駅の移転・改築に合わせて、建設された。1989(平成元)年には、地下鉄桜通線が開通し、「国際センター」駅、「丸の内」駅などが置かれている。(画像は1959(昭和34)年)
錦にある「桜天神社」の存在から命名された「桜通」は、名古屋市内の東西を結ぶ幹線道路の一つになっている。
「第10回関西府県連合共進会」 鶴舞(つるま)公園で開催 約263万人が来場 MAP 15
1910(明治43)年3~6月、「鶴舞公園」で開催された「第10回関西府県連合共進会」には、約263万人の入場者が訪れた。共進会とは、工業製品などを展覧して、品評・審査するもので、このときは約13万点の出品物が並び、大規模な開催となった。「当地の製品を広く世間に知らしめ、モノづくりの発展に資する」という目的通り、名古屋市の産業の発展にも大きく寄与した。(画像は1910(明治43)年)
開催地の「鶴舞公園」はこの博覧会のために整備され、以降市民の憩いの場となった。博覧会で造られた「奏楽堂」は、1934(昭和9)年に老朽化などを理由に取り壊され、その後、異なるデザインで建てなおされたが、1997(平成9)年に築造当時の姿に復元された。
「豊田自動織機製作所栄生工場」 自動織機で世界の「トヨタ」へ MAP 16
「豊田自動織機製作所栄生工場」はトヨタグループの創始者である豊田佐吉によって1911(明治44)年に建設された。豊田佐吉は1924(大正13)年に「無停止杼換(ひがえ)式 豊田自動織機(G型)」を発明、世界を驚かせた。この発明で得た資金と技術が、現在トヨタグループの代名詞ともいえる自動車事業への進出につながったという。(画像は明治後期)
「豊田自動織機製作所栄生工場」は現在、「トヨタ産業技術記念館」として保存されている。記念館には、「繊維機械館」や「自動車館」などがあり、トヨタグループの「モノづくり」をはじめとした日本の産業技術を紹介する施設となっている。
「三井銀行(現・「三井住友銀行」)名古屋支店」 1935年に現在の建物に MAP 17
三井銀行(現・「三井住友銀行」)が名古屋に進出したのは1872(明治5)年で、1915(大正4)年に伝馬町から広小路に移転した。イオニア式円柱が立つ堂々とした名古屋支店の建物は、1935(昭和10)年に建てられた。(画像は昭和前期)
建物は建設された当時のままの姿で残されている。
1897年にこけら落とし 戦後に再建、将来は高層ビルに MAP 18
名古屋を代表する劇場である「御園座」は1897(明治30)年、市川左団次一座を招いたこけら落とし興行で開場した。「御園座」は1945(昭和20)年の戦災と1961(昭和36)年の火災で2度焼失し、1963(昭和38)年に3代目の建物が完成した。(画像は明治後期)
現在は建替え工事中の「御園座」。新しい劇場は、2018(平成30)年完成予定のビルの2~4階に入る予定。
栄町に百貨店 東京・大阪にも進出 MAP 19
1910(明治43)年、栄町に進出し、名古屋初のデパート(百貨店)となったのが「いとう呉服店(現・「松坂屋」)」。かつて尾張徳川家御用達の呉服店であったが、後に東京、大阪などにも進出。デパート網を全国に展開した。(画像は大正期)
現在の「松坂屋名古屋店」は「久屋大通」沿いに北館、本館、南館が並び立って買い物客を迎えている。
名古屋発の老舗百貨店 屋上観覧車は国の登録有形文化財に MAP 20
1954(昭和29)年、「広小路通」と「大津通」の交差点に、「オリエンタル中村」が開店。元は、明治期に創業した「中村呉服店」であり、歴史は古い。開店当時は集客のために、日本初の屋上観覧車を設置し話題を呼んだ。写真が撮られた当時は3階建てで、翌年の1956(昭和31)年に7階建てへ増床した。(画像は1955(昭和30)年)
「オリエンタル中村」は、三越の傘下に入り、「名古屋三越」として営業を続けている。
江戸から続く呉服店が丸栄百貨店に発展 MAP 21
江戸時代、名古屋の御用商人「七家衆」のひとつとなった豪商「十一屋」は1915(大正4)年、玉屋町から栄町に店舗を移し、呉服店から百貨店に営業形態を変えた。太平洋戦争時、百貨店整理統合要項が発せられ「三星」と合併し、現在の「丸栄」となった。(画像は昭和中期)
栄の地で「丸く栄える」という意味で名付けられた「丸栄」。左の昭和中期の写真は、現在の「丸栄百貨店」の向かいにあった北館で、現在は「栄町ビル」になっている。
1954年に完成 当時は東洋一の高さ MAP 22
名古屋の戦災復興のシンボルとして、1953(昭和28)年から建設が始まり、翌年に完成した日本初の集約電波塔である「名古屋テレビ塔」。設計は東京タワーと同じ建築家、内藤多仲ほか。高さは約180mで、当時は東洋一を誇った。(画像は昭和中期)
戦後名古屋のシンボルとなった「名古屋テレビ塔」は、60年以上を経た現在も堂々たる姿を保っている。
南北に貫く幹線道路 「名古屋テレビ塔」が建つ MAP 23
名古屋には「100m道路」と呼ばれる幅の広い道路が2本あり、その1つが市中心部を南北に貫く「久屋大通」である。この道路は戦後の復興都市計画の目玉として火災の延焼防止と非難所となることを目的に1963(昭和38)年に完成、中央帯には緑豊かな「久屋大通公園」が設けられた。(画像は昭和中期)
「100m道路」は、名古屋市のスケールの大きさを表す尺度として、常に語られてきた。
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※企画制作協力/画像古地図提供 / 長坂英生(名古屋タイムズ・アーカイブス委員会)、生田誠

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