写真でひもとく街の成り立ち

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名古屋は、東海地方の中心都市であり、日本を代表する大都市の一つである。江戸時代には、徳川御三家の一つ、尾張家の城下町として発展したが、その前には、織田信長、豊臣秀吉、加藤清正ら多くの戦国武将を生んだ場所でもあった。また、東海地方の交通の要として「名古屋」駅を核とした道路整備、街づくりが行われた。現在の名古屋市内にある「熱田神宮」、「名古屋城」、「徳川美術館」などは、全国的な名所、観光スポットとして知られている。歴史を振り返れば、折々に開催された博覧会、共進会がこの街を発展させた。また、「松坂屋(いとう呉服店)」、「ノリタケ」、「トヨタ自動車」などの企業が全国に進出していった。
名古屋の誇り、全国を統一に導いた「三英傑」

名古屋周辺は、戦国の戦乱から天下統一へ導いた3人の武将、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康のゆかりの地。
天下統一を目指した織田信長は尾張国(現・愛知県西部)に生まれ、2歳にして「那古野城」(「名古屋城」の前身にあたる)の城主となっている。天下統一を成し遂げた豊臣秀吉は現在の名古屋市中村区「中村公園」付近が生誕の地で、1885(明治18)年には秀吉を祀る「豊国神社」も創建されている。徳川家康は三河国(現・愛知県東部)の生まれで、天下統一・江戸開府の最後の布石として「名古屋城」を築城している。地元の人々はこの3人の武将を、顕彰する意味を込めて「三英傑」と呼んでいる。
名古屋は京都・大阪と東京の中間にあたり、陸路及び海路の発達から文化・情報の集まる地であり、軍事的にも重要な地域であった。この地理的な関係が「三英傑」を育て上げた背景にあるのかもしれない。
1955(昭和30)年に始まった「名古屋まつり」では、「三英傑」を中心とする豪華絢爛な「郷土英傑行列」が行われている。2009(平成21)年には観光PRを目的とする「名古屋おもてなし武将隊」が結成、2013(平成25)年には「円頓寺商店街」、「円頓寺本町商店街」に「三英傑」の像が設置されるなど、今なお、「三英傑」は郷土の誇りであることが感じられる。

「円頓寺商店街」、「円頓寺本町商店街」に設置された「三英傑」の像
碁盤割南端の広小路 栄交差点が盛り場に

市電が走る駅前、広小路通(画像は明治後期)

名古屋に城下町が誕生した際、清洲からの移転により「碁盤割」といわれる街の基礎が造られた。これは現在の「錦」「丸の内」にあたり、南北に貫く本町通、東西の伝馬町通が交わる現在の錦三丁目が高札場となった。この本町通は、「名古屋城」から南に延びる美濃路となり、「宮(熱田)宿」に続いていたことから、通り沿いに商店や旅宿が並ぶ街に発展した。その後、現在の広小路通が誕生し、交差点に近い「玉屋町」(現・錦二・三丁目)は、大いに賑わいを見せるようになる。

「納屋橋」から東を望む(画像は昭和前期)

広小路通は、もともと碁盤割の南端にあたる「堀切筋」と呼ばれていたが、1660(万治3)年の大火を機に道幅が15間(約27m)に拡幅され、「広小路」と呼ばれるようになった。
明治になると、「名古屋」駅方面へと延長され、東西を走る路面電車(市電)が誕生し、多くの店がこの通り沿いに移転、進出する。現在の「栄」交差点付近には、県庁や市役所が置かれたこともあり、賑わいは「栄」交差点付近に移った。
県庁と市役所はその後、ともに移転し、「名古屋城」そばの三の丸に並び建っている。

名古屋城と熱田神宮を結ぶ名古屋の幹線道路「本町通」

画像は明治後期

江戸から明治までの間、「本町通」は「名古屋城」から「広小路通」までの区間が名古屋一の中心街であった。この「広小路通」との交差点付近は「玉屋町」と呼ばれ、「長谷川時計舗」の高い時計塔が街の目印となっていた。

画像は昭和前期

街並みの変化は見られるが、時計塔は変わらず街を見下ろしている。「名古屋城」正門から熱田まで延びる「本町通」と「広小路通」の交差点には、「旧・名古屋市道路元標」が設置された。

「本町通」と「広小路通」の交差点付近

現在の「本町通」と「広小路通」の交差点付近の様子。賑わいの中心地はオフィス街へと姿を変えた。

武平町の交差点に建立 戦死者氏名を刻む

画像は大正期

砲弾の形をした、日清戦争で戦死した兵士を顕彰する碑が「広小路通」と「武平町通」の交差する地点に建てられたのは1899(明治32)年のこと。正式な名称は「日清戦役第一軍戦死者記念碑」。広小路の市電は当初、この碑を迂回する形で走っていた。

画像は大正期

迂回する形で走っていた市電が発する騒音を除去するため、記念碑は1920(大正9)年、覚王山放生池の畔に移された。池は埋め立てられたが、記念碑は現存する。

中区役所前の交差点

記念碑のあった付近は、現在の中区役所前の交差点にあたる。明治時代に名古屋の中心が栄に移ってから、現在も変わらず街の中心であり続けている。

「名古屋汎太平洋平和博覧会」 戦前では日本最大規模

画像は1937(昭和12)年

1937(昭和12)年に開催された「名古屋汎太平洋平和博覧会」は、産業の振興を目的として約480万人の入場者を集めた、戦前における日本最大級の博覧会である。現在も港区役所前に残る「平和橋」は、博覧会のために造られたもので、当時は堀川と中川運河を結ぶ水路に架けられていた。

画像は1937(昭和12)年

博覧会が開催されたこの年、新「名古屋」駅も竣工。また、駅前の目抜き通りとして「桜通」も整備されるなど名古屋の街づくりが進められていった。写真は「観光館」の様子。

鶴舞公園の動物園が移転 1937年に東山動物園開園

東山動物園の様子(画像は昭和前期)

名古屋の動物園は、1890(明治23)年に中区前津町で一般公開された、動物商・今泉七五郎の「浪越教育動物園」に始まる。動物園は1910(明治43)年に大須門前町に移転したが、後継者がいなかったことで、この動物たちが1917(大正6)年に名古屋市に寄贈された。

動物園の正門(画像は昭和前期)

こうして誕生したのが「名古屋市立鶴舞公園附属動物園」で、1928(昭和3)年の「御大典奉祝名古屋博覧会」の際には、大いに来場者を集めた。1929(昭和4)年に「名古屋市立動物園」と改称したものの、園地が手狭だったため、新たな場所に動物園を建設、動物園の移転が決まった。そして、1937(昭和12)年、現在の千種区に誕生したのが「東山動物園」である。新しい動物園の面積は、鶴舞時代の約13倍。名古屋の新しい名所となって市民に親しまれた。
現在は植物園と合わせて、「東山動植物園」となっている。約60haの広さを誇る園内には、動物園、植物園のほか、遊園地や「東山スカイタワー」がある。

出発は「日本陶器合名会社」「ノリタケ」は創業地名

画像は1904(明治37)年

世界的に知られる陶磁器メーカー、「ノリタケ」は1904(明治37)年、愛知県鷹場村則武(現・名古屋市西区則武新町)に創立した「日本陶器合名会社」に始まる。「ノリタケ」は創立の地名“則武”に由来する。食器の世界ブランドとして発展する一方で、研削研磨工具の総合メーカーとしても成長。幅広い産業分野で活躍する企業となった。

ノリタケの森

ノリタケ本社敷地内には陶磁器に関する複合施設「ノリタケの森」が2001(平成13)年にオープンした。本社工場の跡地には、商業施設などの開業が予定されている。

 

本社全景(画像は1917(大正6)年)
ドイツの製パン技術により創業した「敷島製パン」

画像は1920(大正9)年

「敷島製パン」は1919(大正8)年に創立された名古屋の老舗企業。その前身は半田にあった「敷島屋製粉工場」で、創業者の盛田善平は醸造業の盛田家の分家出身。写真は創業時に新築したパン焼き窯で、右から5番目が盛田善平、4番目が技師長のハインリッヒ・フロインドリーブ。第一次世界大戦時の「名古屋俘虜収容所」内に製パン技術に優れたドイツ人俘虜がいると聞きつけた盛田善平が技師長として招き、製パン会社を興した。

画像は1925(大正14)年

「シキシマ」のパンは安くて味がよいほか、「宣伝部」を設けての巧みな宣伝もあり、人気のお店となった。写真は1925(大正14)年の直営店の開店売り出し風景。創業者・盛田善平の発案により、サーカスの象を使ってPRしている。現在「敷島製パン」は「Pasco」ブランドで全国で知られ、製パン業界において国内2位のシェアを誇る大企業となっている。

名駅、三の丸などの発展 戦後に2本の100m道路

「名古屋放送局」(画像は昭和前期)

現在の名古屋を代表する大通りは、東西の「広小路通」と南北の「久屋大通」で、その交差点に近い「栄」は、この街一番の賑わいを見せている。しかし、かつての賑わいの中心はもっと西にあり、江戸時代には現在の「本町通」が南北のメインストリートであった。
一方、かつて「名古屋」駅(名駅)があった付近は「笹島」と呼ばれる、市街地からはずれた場所であったが、鉄道や市電が開通し、「広小路通」により市の中心部とも結ばれるようになる。1937(昭和12)年には、駅舎が移転し、「桜通」も整備され、駅周辺の発展に拍車がかかった。そして、名鉄や近鉄線、市営地下鉄線がこの駅に乗り入れることで、この地区の集客力がさらに増していった。また、(中区)三の丸地区には、1925(大正14)年に全国で三番目の放送局である「名古屋放送局」が開局(現在は移転)。昭和に入ると、県庁、市役所も騎兵第三連隊跡地の現在地に移ってきた。
名古屋の街は1945(昭和20)年、米軍による二度の空襲(名古屋大空襲)で中心部が焦土と化した。しかし、そこからの復興は早く、2本の100m道路である、東西の「若宮大通」と南北の「久屋大通」が、戦後の名古屋を象徴するメインストリートとして整備された。また、1954(昭和29)年には「名古屋テレビ塔」が竣工している。
名古屋は、現在も江戸の碁盤割を受け継ぎ、東西南北の道路が整然と走る街となっている。


※企画制作協力/画像古地図提供 / 長坂英生(名古屋タイムズ・アーカイブス委員会)、生田誠

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