写真でひもとく街の成り立ち

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東京都西南部における主要都市である「町田」。古くは鎌倉街道沿いの「本町田」地区が宿場として賑わい、開国後には、生糸の輸送ルートとして町田街道(『絹の道』)が利用されたことから、街道沿いの「原町田」地区が物資の中継点として繁栄した。貿易港である「横浜」との結びつきも強く、一時は神奈川県に属していた。この「原町田」地区には、横浜鉄道(現・JR横浜線)、小田急線の駅が開業、現在に至るまで町田の中心地となっている。その後も国鉄(現・JR)駅の小田急寄りへの移転、駅前の再開発が行われ、さらなる街の整備が続いた。
現在、小田急線「町田」駅南口付近にある「絹の道」の石碑
現在、小田急線「町田」駅南口付近にある「絹の道」の石碑
『絹の道』と多摩の東京府移管
江戸末期以降、町田が発展した大きな理由は、『絹の道』にある。八王子は江戸時代から繭や生糸の産地であり、さらに甲州や上州など大生産地からの集積地としても発展、「桑都」とも呼ばれた。一方、横浜港は開国以降、貿易港として発展、明治以降には国策でもあった生糸輸出のための積み出し港となる。この八王子と横浜港をつないだのが『絹の道』で、そのほぼ中間に位置する原町田は中継地として発展した。
『絹の道』は横浜を通じて、キリスト教や自由民権思想など、外国の思想・文化も運んだ。特に自由民権思想は『絹の道』沿道の豪農など、村の有力者を中心に広まる。町田は石坂昌孝、青木正太郎といった有力な指導者を輩出、また大規模な集会が開かれるなど、自由民権運動の中心地となった。
その後、現・町田市域を含む多摩郡が属していた神奈川県の県議会では、多摩郡出身の自由党議員が勢力を拡大、県知事と対立するなど県政の混乱が見られるようになる。県知事は多摩郡の東京府への移管を政府に要請、東京府としても水源地である多摩郡を管理下に置きたいという理由もあり、境域変更法案は帝国議会でわずかな審議ののち可決、多摩郡は1893(明治26)年4月、神奈川県から東京府に移管された。
『絹の道』がなかったら、また自由民権運動が拡大することがなければ、現在は「神奈川県町田市」であったかもしれない。
「町田商工会議所」近くに建っている「二・六の市の碑」
「町田商工会議所」近くに建っている「二・六の市の碑」
『絹の道』で発展し、現在に続く商業地
原町田では、安土桃山時代から「二の市」(毎月2のつく日に立つ市)が始まり、江戸時代後期には「二・六の市」が開かれていた。市では炭、薪、蚕糸、畑作物、衣料、農具などが扱われたという。
明治時代になると、八王子から原町田を経て横浜港を結ぶ『絹の道』に繭や生糸を運ぶ人が往来するようになった。当時の運送手段は馬や荷車であり、横浜で生糸を降ろした帰りには乾物などの保存しやすい海産物や肥料(干鰯)や舶来品などを仕入れて『絹の道』を戻った。
『絹の道』の中継地であった町田は、生糸などの商人が多数往来するようになり、「二・六の市」では横浜で仕入れた商品も販売されるようになり、「市」はますます賑わうようになったという。
1908(明治41)年に横浜鉄道(現・JR横浜線)が開通すると、「市」の日以外にも人が多く訪れるようになり、乾物・呉服・洋品・道具などの店も開かれ、賑わう商業地となった。
現在でも「町田」駅周辺には「柾屋商店」など、明治〜大正期創業の乾物店が数店残るほか、明治期創業の呉服店・茶道具店をはじめ、昭和初期までに開業した商店も多数残っており、商業地としての伝統が感じられる。その中には、幾度かの大火や道路の拡幅、地域の再開発などを経てもなお、創業当時の場所で営業を続ける店も見られる。
横浜線を走るSLの様子 1965(昭和40)年撮影
横浜線を走るSLの様子 1965(昭和40)年撮影
鉄道開通を経て、発展する町田
江戸時代には『絹の道』を中心とする街道交通の要地であった町田が、その後、交差する鉄道の連絡駅となるのは自然の成り行きであった。1908(明治41)年『絹の道』に代わる生糸等の輸送路として「横浜鉄道」が開通。東神奈川・八王子間、42.6kmを結ぶもので1日7往復、約101分で両駅間をSLが牽引する列車が走った。中間駅として7駅が置かれ、JR「町田」駅の前身である「原町田」駅も含まれている。開通当初の「原町田」駅の年間利用者数は中間駅の中では最も多い約6万人であったが、経営状態は悪く、2年後には鉄道院(後の国鉄)に借り上げられて「八浜線」となり、1917(大正6)年には買収されて「横浜線」となる。
この「原町田」駅は、1927(昭和2)年に小田急線「新原町田(現・町田)」駅との連絡駅となる。小田急線は、開通時から電車による運行であった。一方、横浜線は1925(大正14)年から東神奈川・原町田間で、東海道本線の電化に備えた電車の試験運転が行われていたが、実際にこの区間が電化されるのは1932(昭和7)年。全線電化は1941(昭和16)年のことである。
このように、原町田には2つの駅がありながら、その距離は離れており乗り換えは不便であった。小田急「新原町田」駅は1976(昭和51)年に「町田」駅に改称。国鉄( 現・JR )の「原町田」駅は1980(昭和55)年に小田急駅寄りに移転し、こちらも駅名を「町田」駅に改称する。こうして、乗り換えの利便性が増した「町田」駅は、さらに利用客が増加、発展を果たすことになった。
小田急電車 沿線案内(昭和初期)
小田急電車 沿線案内(昭和初期)
「小田急電車 沿線案内」「町田」と「小田急」
この図は1939(昭和14)年発行「小田急電車 沿線案内」の町田付近を拡大したもの。「新原町田」駅は、現在の小田急「町田」駅にあたる。「新原町田」駅を通る黒い線は省線(後の国鉄、現・JR)横浜線で、当時少し離れた場所にあった「原町田」駅は省略されている。
「新原町田」駅のほか、「玉川学園前」駅と「鶴川」駅も現在の町田市域内となる。「鶴川」駅前に記載されている「能ヶ谷ノ灸」については、「沿線案内」の裏面に『駅前に灸治所あり、(中略)「能ヶ谷灸」の名高し』と記載がある。1938(昭和13)年発行の『全国名灸秘伝集』(帝国鍼灸医報社刊)には「小田原急行鉄道の鶴川駅は此の灸の為め出来たと云う」という記載もある。当時は特に有名な灸治所であったようだが、現存していない。
当時は「小田急小田原線」ではなく、「小田急電車」「小田原急行電車」「小田急本線」などと呼ばれることが一般的であった。「小田原線」と一般的に呼称されるようになったのは、この案内の発行より3年後の1942(昭和17)年。戦時統制により、東京急行電鉄と合併(いわゆる「大東急」)となった際、東急の他路線と区別するため、「東急小田原線」と呼ばれるようになった。戦後の1948(昭和23)年、「大東急」は解体となり、「小田原急行電鉄」として再発足となったが、「小田原線」の名称は引き続き利用されている。

※「町田街道」を『絹の道』と命名したのは八王子の郷土史家である橋本義夫氏。昭和30年代に著書などで提唱され、近年定着した名称であるが、ここでは「町田街道」の歴史的役割を端的に伝えるため、古い時代の「町田街道」についても『絹の道』と表現している。

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