写真でひもとく街の成り立ち

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京都府 京都
平安京誕生前の奈良時代後半は、平城京から難波京、長岡京などへ遷都が繰り返された。794(延暦13)年、平安京が新都に定まると、この地は1000年以上、日本の都として繁栄した。しかし、明治維新を機に東京に首都が移ると、その賑わいにも一時翳りが見られるようになる。
そんな中で、文明開化の波に取り残されないよう、明治から大正にかけて、近代都市への大改造に伴う事業が展開されていった。「琵琶湖疏水」、日本初の電車開通、鉄道の敷設…。これらは新しい京都の街の財産になった。
さらに1895(明治28)年に同時開催された、「平安遷都千百年紀念祭」と「第4回内国勧業博覧会」は経済・文化の再生と発展に大きな役割を果たした。
近代化の一方、多くの名所旧跡が残されており、内外から絶えず観光客が訪れる街となっている。
賀茂川と高野川が合流する出町柳付近の俯瞰、航空機から(昭和戦前期)。
賀茂川と高野川が合流する出町柳付近の俯瞰、航空機から(昭和戦前期)。
京都人にとっての鴨川 市民の川、そして観光の川
意外かもしれないが、姉妹都市であるパリ市を仲介にして、京都市と東京都も「兄弟姉妹」の関係になる。そこに類似点を見出すならば、セーヌ河に似た鴨川と隅田川の存在がある。
両者にはいくつかの共通点がある。まずはどちらも歴史のある街の東部において、南北に貫いて流れていること。さらに、古代より洪水などを繰り返し、治水に手こずったことも同じである。隅田川は、利根川東遷による付け替えが有名だが、鴨川でもかつては付け替え説が有力だった。また、その河原は現在よりも広く東西にまたがっていたと考えられている。
さらに、上流、下流での呼び名が異なるということも共通する。鴨川、隅田川ともに市街地ならではの名称で、市民が愛した名前だ。両者の川沿いには独自の文化、風習が生まれた。それは、特に芝居、芸能との結びつきである。京都においては、鴨川の西に平安京の(東)京極があり、ここは洛外(郊外)との境界だった。四条河原は、出雲の阿国が活躍した歌舞伎発祥の地とされ、四条通に面した「南座」は、伝統を受け継ぐ歌舞伎小屋(劇場)として、現在も年末の顔見世興行の舞台となっている。
白河天皇が嘆いた鴨川の暴れ水は有名だが、常時には恵みの方が大きかった。友禅染の友禅流しは、古き良き時代の京都の風物詩のひとつだった。豊かな水は生活用水として、人々の暮らしを支えてきた。もちろん、川沿いにある美しい風景は今も昔も変わらない。ここに住む人々の川であり、この地を訪れるすべての人を魅了するのが鴨川である。
碁盤の目の街を走った京電と市電

市電、京電を合わせた京都市内の電車路線図(大正期) 市電、京電を合わせた京都市内の電車路線図(大正期)

明治後期になると、人口や物流が大幅に増えていた京都では、近代都市となるための基盤整備が課題となっていた。そこで計画されたのが、「第二琵琶湖疏水(第二疏水)」建設、上水道整備、道路拡築および市電敷設の「京都市三大事業」である。この事業の完了により、近代京都の都市基盤が築かれたのである。
明治中期から京都電気鉄道(京電)が先行して敷設した電車路線と競合する形で、1912(明治45)年から、京都市が三大事業の一つとして、京都市電気局(市電)の路線を開業してゆく。まずは、烏丸線、千本線、四条線、丸太町線から始まり、七条線、今出川線、東山線…と続いた。現在では市バスが走る、ほとんどの大通りに市電路線が整備された。

北野(堀川)線の記念乗車券(1961(昭和36)年)北野(堀川)線の記念乗車券(1961(昭和36)年)

一方、この新路線の誕生で、古い道を走っていた京電が受けた影響は大きかった。1918(大正7)年、京電は京都市に買収され、京都の路面電車は市電に統一される。この後、新たに河原町線、西大路線、九条線などが開通し、かつての市電・京電の競合路線のうち、京電由来の木屋町線、寺町線、鴨東線などが廃止された。
その後は、市内における自動車、バスなどの交通量の増加などで、市電の存在は影の薄いものとなる。1961(昭和36)年、京電由来の最後の狭軌区間だった北野(堀川)線が廃止となる。
1978(昭和53)年にはすべての路線が廃止され、長い歴史を誇った市電は姿を消した。

任天堂、オムロン、京セラ… 続々と生まれたユニーク企業

任天堂の旧本社、京都市下京区(1937(昭和12)年)任天堂の旧本社、京都市下京区(1937(昭和12)年)

清水焼、友禅染、西陣織などの伝統産業で知られる京都であるが、明治以降には、次々と新しい産業も興った。中でも、現在に続くユニークな企業として、ゲーム機メーカーの任天堂、電子機器のオムロン、電子・情報・通信機器の京セラを紹介したい。

任天堂のトランプと工場(1937(昭和12)年)任天堂のトランプと工場(1937(昭和12)年)

「任天堂」は、1889(明治22)年、鴨川に架かる「正面大橋」西側(下京区)で山内房治郎氏が始めた花札づくりに始まり、カルタ、トランプを製作する会社として発展した。現在では、ゲーム機メーカーとして世界に名を響かせている。本社は南区に移ったが、創業地には昭和初期に建てられたかつての本社ビルが今も残されている。
また、「オムロン」は1930(昭和5)年、立石一真氏が「任天堂」と同じ下京区に設立した彩光社がルーツで、立石電機を経て、1990(平成2)年に現在の社名となった。ベンチャー精神あふれる社風で、家庭用電子血圧計では世界トップシェアを誇っている。
1959(昭和34)年創業という、戦後生まれの京都セラミックが、現在では稲森和夫氏の手で日本有数の大企業、「京セラ」に成長している。
いずれも、他に例のないユニークな企業で、京都の産業の発展にも大きく寄与している。


※企画制作協力/画像古地図提供 / 生田 誠、森 安正

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