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金沢北条氏と「金沢文庫」創設


金沢北条氏の菩提寺だった「称名寺」 MAP __

「称名寺(しょうみょうじ)」は、鎌倉幕府の要職を務めた北条氏の有力一門、金沢北条氏の祖である北条実時が1258(正嘉2)年、金沢の邸宅に建てた持仏堂(じぶつどう)が起源とされている。その後、1267(文永4)年に僧の審海を開山に招いて「真言律宗」の寺院となり、金沢北条氏の菩提寺となった。写真右の鐘楼(しょうろう)は『金沢八景』のひとつ「称名晩鐘(しょうみょうのばんしょう)」としても描かれた。また「金沢文庫」を引き継いだ寺でもある。写真左の「金堂」は1681(天和元)年に建立されたもの。【画像は昭和戦前期】

閑静な境内は国の史跡に指定されている。

国内に現存する最古の武家文庫「金沢文庫」

「金沢文庫」は1275(建治元)年頃、北条実時が邸宅内に設けた蔵書の文庫で、国内に現存する最古の武家文庫となっている。金沢北条氏の滅亡後は、菩提寺である「称名寺」により守られてきたが、室町時代から江戸時代にかけて蔵書が散逸した。画像内の文章は中国から伝わった政治書『群書治要』を実時が書写したものとされる。実時の手蹟(しゅせき)と花押(かおう)であり、右下に「金澤文庫」の墨印記が確認できる。【画像は鎌倉期】

「観梅」の名所として有名だった「杉田梅林」 MAP __

戦国時代に久良岐郡(くらきぐん)杉田村は後北条氏の家臣、間宮氏の一族の配下にあった。天正年間(1573~1592年)の頃に、杉田村領主の間宮信繁は、この地で梅の栽培を奨励したとされる。この「杉田梅林」は江戸中期から大正期にかけて観梅の名所として有名になり、「妙法寺」の境内には店が出て、文人墨客と見物人が多く訪れた。【画像は大正期】

信繁の墓は磯子区杉田の「妙法寺」にあり、境内は「照水梅(しだれ梅)」をはじめとするさまざまな種類の梅の木が植えられ、現在も観梅の名所となっている。


鎌倉時代創設の「金沢文庫」が歴史博物館になるまで MAP __

1930(昭和5)年頃の「金沢文庫」外観

1930(昭和5)年頃の「金沢文庫」外観。【画像は1930(昭和5)年頃】

北条実時は、鎌倉幕府の執権だった北条氏の有力な一門・金沢北条氏の実質的な初代とされており、幕府の要職を務める一方で読書家としても知られ、学問・文学を好み、河内本『源氏物語』の注釈書の編纂も行っている。1275(建治元)年、政務を引退した実時は金沢の地に居を構え、邸宅内に蔵書を集めた「金沢文庫」を創設したが、翌年亡くなったとされる。

この文庫は、実時亡き後も、金沢北条氏で受け継がれた。鎌倉時代末期に一時、執権を務めた実時の孫・北条貞顕(さだあき)は、京の六波羅探題を務め、その間に宋版の漢籍などを収集していた。この経験を活かし、また、自らも写本を行うなどして、文庫の充実・収集に注力した。しかし、貞顕をはじめとする金沢北条氏の一門は、1333(元弘3・正慶2)年に鎌倉幕府とともに滅亡し、「金沢文庫」は、金沢北条氏の菩提寺である「称名寺」に受け継がれることとなる。その後、室町時代から江戸時代にかけては、この地を支配した有力者である後北条氏、江戸幕府初代将軍の徳川家康らが蔵書を持ち出し、散逸したとされる。

明治維新後、初代内閣総理大臣の伊藤博文が散逸した蔵書の収集・回収を行い、1897(明治30)年、「称名寺」の「大宝院」に文庫を再建した。

しかし、新設された「金沢文庫」は1923(大正12)年の「関東大震災」で倒壊。その後の1930(昭和5)年に現在の金沢区に別荘を持っていた実業家・大橋新太郎の寄付を受け、「神奈川県立金沢文庫」が誕生した。1990(平成2)年には、現在のような中世の歴史博物館に姿を変えて、文化財の展示や講座が行われている。


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