写真でひもとく街の成り立ち

このまちアーカイブス
古来、兵庫港(かつての大輪田泊)は、日宋貿易の中心として栄えていた。一方、神戸は、砂浜が広がる小さな寒村に過ぎなかった。1858(安政5)年、日本は、米英仏露蘭の5カ国と修好通商条約を締結。幕府は開港場として兵庫を定めたにもかかわらず、海域を測量した結果、入り江が港として適していたことなどから、神戸に居留地が設けられた。そして、この地が後には日本を代表する港町の一つとして発展を遂げることになる。外国人居留地から様々な西洋文化が伝わり、隣接する元町は、ハイカラな品々の並ぶ商業地として賑わった。
神戸港・兵庫港で「二つの扇」

神戸の市章

神戸の市章といえば、半円を二つ重ねた右のようなデザインである。神戸市内を歩いていると、至る所にこのマークを見ることができる。この市章の由来は明治後期にさかのぼる。当時の神戸は、横浜や大阪と比べると港湾施設の近代化に関しては遅れを取っていた。そこで、後に「築港市長」の異名が与えられた水上浩躬市長が、港の整備を強力に国に働きかけ、予算が議会を通過し、1906(明治39)年、神戸港築港の第一期工事が着工。

兵庫港・神戸港

神戸の市章は、水上市長自らが意匠を考案した。「神戸」の歴史的仮名遣いである「カウベ」の「カ」の字を表したことに加え、兵庫港が昔扇港(せんこう)と呼ばれていたことから、二つの扇(兵庫港・神戸港)が交差したデザインとした。

市章山と碇山

市章制定の1907(明治40)年、碇山の隣の山へ市章の形に松の木が植樹され、「市章山(ししょうざん)」と呼ばれるようになった。やがて夜間はイルミネーションが灯されるようになる。阪神・淡路大震災の夜、街は停電で暗闇となったが、煌々(こうこう)と輝く市章山と碇山のイルミネーションが、被災者を勇気づけた。(右の写真は、大正中期~ 1931(昭和6)年頃)

生田の森
「摂津国花熊城図」に基づき作画
激戦地となった生田の森
生田神社の北にはかつて、楠が茂る「生田の森」が、旧生田川(現、フラワーロード)まで広がっていた。清少納言の『枕草子』にも「杜(もり)は生田の杜」と記されるなど、平安貴族にも知られていた。「秋風に またこそとはめ 津の国の 生田の森の春のあけぼの」という鎌倉時代の順徳院の歌碑が、生田神社の境内に置かれている(「春の曙の頃訪れたが、秋風の頃にまたきっとこの生田の森に訪れたい」)。

 

生田の森は、神戸における源平合戦の開戦の地。梶原景時は、一度敵地に攻め、形勢不利で退却した後、息子が取り残されたことを知ると単身敵陣に再突入して、子を救出した(「梶原の二度駆け」)。戦国時代、織田信長に対して謀反を起こした荒木村重が、花隈城(はなくまじょう)(花熊城)に篭城した際、攻撃側の池田恒興の次男・池田輝政が生田の森に布陣した。現在、生田の森は市街地に囲まれつつ、かろうじて残っている。
六甲山・記念碑台
六甲山開拓の開祖であるグルームを記念した「六甲山・記念碑台」 昭和初期
六甲山開拓物語
六甲山の開拓は、その眺望の素晴らしさに感銘を受けたイギリス人貿易商A・H・グルームによって着手されていった。1895( 明治28)年、グルームは、現在、六甲山牧場が広がっている近くの三国池に自らの別荘を建設。彼の商館は居留地101 番にあったため、別荘も「101番屋敷」とか「百壱」と呼ばれた。さらに別荘地を外国人に分譲し、ある時期には、「神戸外国人村」と呼ばれるほどであった。やがて日本初のゴルフ場を設立し(今日の「神戸ゴルフ倶楽部」)、私財を投じて六甲山に登山道を整備、植林も進めた。やがてグルームは「六甲市長」という愛称で呼ばれるようになる。
1912(明治45)年、六甲山の高台(標高795・6m)に、グルームの功績を記念する高さ3mの六甲山開祖之碑が設置された。ただし、グルーム本人は、「私は神様ではない。死んでからにしてくれ」と断ったという。戦時中、この碑は敵国人を称えるものとして、谷に落とされてしまった。戦後になり、1955(昭和30)年に「六甲山の碑」として再建され、グルームの胸像も造られた。
昭和初期になると、阪急電鉄と阪神電鉄が競って六甲山の本格的な開発を進め、六甲一帯は一大避暑地・リゾート地に成長していった。
湊川新開地
劇場が軒を連ねた「湊川新開地」 昭和初期
東の浅草・西の新開地

湊川とそこに架かる湊橋

湊川が埋められて誕生した「新開地」はかつて、映画館、芝居小屋が立ち並び、「東の浅草・西の新開地」と呼ばれるほどの大歓楽街だった。湊川(みなとがわ)は、1336(建武3)年、楠木正成軍と足利尊氏軍が衝突した湊川の戦いの古戦場として知られている。湊川は、天井川でしばしば決壊し洪水が生じたため、湊川を埋め立て、流路を市街地を避けつつ南下させた。左の古写真は、湊川とそこに架かる湊橋。1905(明治38)年、埋め立ては完了し、湊川公園や、「新開地」が誕生した。

新開地のゲート「BIG MAN」

かつての「湊橋」は現在、新開地のゲート「BIG MAN」(チャップリンの形をしている)付近に相当する。チャップリンは戦前、新開地を何度か訪れ、まだ若かりし頃の映画評論家・淀川長治とも対面している。ちなみに淀川長治の母親「りゅう」は、ちょうど「帝国館」の隣の映画館で活動写真を観ていた夜に、産気づいたという。

一時期、神戸は「首都」だった

福原という場所は、大輪田泊の港を見下ろすことのできる山麓にある(現在の神戸市兵庫区)。清盛の時代、この福原にわずか半年間だが、都(福原京)が置かれた。
1180(治承4)年、平清盛は、京都から福原へ遷都を実行し、安徳天皇の「本皇居」を雪見御所の北に設けた。平安末期、大寺社は僧兵の軍を抱えて大きな武力集団となっていた。それら宗教勢力や敵対する貴族勢力からの政治的干渉を避け、天皇を地理的にも切り離して自らの武家政権の確立を目論(もくろん)だのが、遷都の理由の一つである。もし、平家が没落せず、後々まで勢力を拡大していたなら、鎌倉幕府ではなく、「福原幕府」の時代が来ていたかもしない。そして現在の神戸が日本の首都として続いていたかもしれない。
しかし急な遷都で施設が十分整わなかった上に、貴族たちの反発に遭い、さらには源氏の挙兵が重なったため、わずか5ヶ月間で清盛は平安京に都を戻した。さらに翌年、無念の内に清盛は死去する。福原京には安徳天皇の「平野殿」(本皇居)や、平清盛の邸宅(雪見御所(ゆきみのごしょ)、もしくは雪御所(ゆきのごしょ))といった壮麗な屋敷が次々造営されていたが、源平合戦の際に、それらはすべて焼き払われた。そのため、福原京の時代の遺構は地上に残っておらず、碑や町名(雪御所町、上・下祇園町、上・三条町)にその名残りをとどめるのみである。

雪見御所跡記念石碑

明治時代に入り、湊山小学校の校庭から、土器や礎石が発掘され、雪見御所跡と推定され、記念石碑が建てられた。この碑は湊山小学校の北側、神戸市兵庫区雪御所町2丁目にあり、かつて御所の庭石に使われていたと考えられている。

和田岬灯台と砲台
明治後期~大正初期
和田岬灯台と砲台と和楽園

砲台

沿岸防備のため、勝海舟の設計によって砲台が建造され、1864(元治元)年に完成した。外部が石造、内部が木造2階建の堅牢な建物。2階に11門と屋上に16門の砲門が設置された。
さらに、開港に伴い、航海上の難所だった和田岬への灯台建設が急がれ、1871(明治4)年、イギリス人技師リチャード・ブラントンの設計で木造灯台が竣工。だが、耐久性の問題で、1884(明治17)年に3階建の鉄骨造へと姿を変えた。建替えられた灯台は現存する最古の鉄製灯台である。1963(昭和38)年廃灯し、翌1964(昭和39)年、須磨海浜公園に移設された。白かった外装は赤く塗られ、現在は「赤灯台」と呼ばれている。

和楽園

また、明治中期には和田岬に遊園地が造られ、和田岬から一字とって「和楽園」と呼ばれた。園内には、見晴らしのよい洋風3階建の眺望閣や、日本で最初に海水魚を展示した和楽園水族館、魚釣場、ビリヤード場、茶店などがあり、人々を楽しませた。

大同燐寸(マッチ)株式会社 昭和初期
大同燐寸(マッチ)株式会社 昭和初期
神戸を支えた「マッチ産業」

マッチの街・神戸と言われたほど、神戸は明治時代、マッチ産業が盛んだった。諏訪山で金星の太陽面通過を観測したフランス隊の中に、フランスに留学し理工学を学んだ清水誠がいた。留学生時代、マッチ製造について研究を始め、帰国後の1876(明治9)年、東京の本所柳原町にマッチの大工場を造り、新燧(しんすい)社を設立した(社名の「燧」は、火打ち石のこと)。清水は、寛大にもマッチ製造を始める者達に、技術を教えるのみならず、原料や製造機械の調達まで手伝った。次第に神戸にはマッチ製造会社が続々と立ち上がり、当時の日本の主力輸出産業にまで発展した。そして、明治・大正期の主要なマッチ生産地は神戸であった。

マッチのラベルに描かれた商標

上の古写真は、「大同燐寸株式会社」の工場の写真。大同燐寸は1927(昭和2)年、スウェーデン燐寸、東洋燐寸、日本燐寸、公益社の合弁によって設立した。この会社は、今日の兼松日産農林株式会社マッチ部の前身である。
マッチのラベルに描かれた商標は、その製品がどの会社で作られ、どんな品質かを表す重要な役割を果たした。デザインも独特なものが多く、特に動物や植物をあしらったものが好まれた。


※企画制作協力/画像古地図提供 / 原島 広至

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