写真でひもとく街の成り立ち

このまちアーカイブス
JR中央線と京王井の頭線が交わる交通アクセスの要衝でもある「吉祥寺」駅。開業当時は農村が広がるだけだった駅周辺だが、関東大震災や第二次世界大戦といった激動の時代、そして昭和30年代後半から始まる都市計画を経て、大きく発展を遂げている。「井の頭恩賜公園」に代表される武蔵野の豊かな自然と、多彩なショッピング施設に恵まれた「吉祥寺」は、住みたい街ランキングで上位をキープするほどの人気を集める街になった。
古い写真からこの街の歴史をひもとき、成熟した「吉祥寺」の人気の秘密を探ってみたい。
水の神様 「井の頭池 弁財天」
武蔵野台地の窪地にあたる「井の頭池」周辺は、遺跡が残るなど古くから人々の営みもあったことが分かっている。江戸時代には「神田上水」の水源の一つであり、「弁財天」は江戸の住民から”水の神様”として篤く信仰され、行楽地となるなど、当時から人々に親しまれていたという。
新田開発と「吉祥寺」のはじまり 2万分の1迅速測図(1880年代)
江戸時代、「玉川上水」が開通し、原野だった武蔵野台地上は上水の分水を受け、農地として開発が進められる。さらに、1659(万治2)年に江戸本郷元町(現在の文京区付近)の吉祥寺門前町から移住した人々が、「五日市街道」沿いに短冊状に与えられた土地を開発し始めた。
町制施行とともに誕生した「武蔵野町役場」(1929(昭和4)年)
武蔵野村は、1928(昭和3)年に町制を施行、武蔵野町となった。「武蔵野町役場」は、現在の「吉祥寺」駅北西の中町地区に新築されることになり、1929(昭和4)年6月15日に落成式を迎えた。
「中島飛行機」西工場跡地に米軍宿舎の建設が始まる(1952(昭和27)年)
米軍による空襲で大きな被害を受けた「中島飛行機 武蔵製作所」西工場の跡地は、戦後、一部を利用して米軍宿舎を造る計画が立てられた。建設反対運動が行われるなど紆余曲折の末、1953(昭和28)年に完成。通称「グリーンパーク」と呼ばれ、翌年から入居が始まっている。
都内3番目の野外音楽堂「井の頭公園野外音楽堂」(1956(昭和31)年)
1956(昭和31)年、井の頭池の畔に「井の頭公園野外音楽堂」が完成した。「日比谷公園」「上野公園」内のものに次ぎ、3番目となる野外音楽堂で、高さ4.5mのシェル型の構造を持ち、舞台の広さは170平方メートルであった。
武蔵野市内を通過した東京オリンピックの聖火リレー(1964(昭和39)年)
1964(昭和39)年10月8日、東京オリンピックの聖火リレーが三鷹市から武蔵野市に到着した。当時の「武蔵野市営グラウンド」内で聖火祭が行われたのち、市内で1泊。翌日、練馬区へと引き継がれていった。
古くから市民の憩いの場として親しまれた「井の頭恩賜公園」
1917年(大正6)年5月1日に開園した「井の頭恩賜公園」は、日本で最初の郊外型公園であり、皇室御料地の下賜を受けた公園としても日本初であった。開園当時の公園の面積は285,007平方メートルで、うち45,200平方メートルは井の頭池が占めていた。
関前の「延命寺」にあった「武蔵野村役場」(明治後期)
1889(明治22)年4月1日に吉祥寺、西窪、境、関前の4村と井口新田の飛び地が合併し、武蔵野村が誕生した。「武蔵野村役場」は吉祥寺、西窪、境、関前の連合戸長役場があった関前の「延命寺」に置かれた。村議会は本堂で開かれていたという。
昆虫採集ブームを牽引した「平山昆虫博物館」(昭和初期)
「平山昆虫博物館」は昆虫学者である平山修次郎氏が井の頭に作った博物館。昭和30年頃に閉館するまで多くの人が訪れた。平山氏が制作した「原色千種昆虫図譜」には、昆虫マニアとしても有名な手塚治虫氏が感動し、「オサムシ」と改名するきっかけとなった。さらに、平山氏に会うために、兵庫県宝塚から井の頭の博物館へ来たこともあった。
ホタルもいた玉川上水(1967(昭和42)年)
戦後まもない頃にはホタルの姿を見ることもできた玉川上水。1965(昭和40)年以降、水道原水としての役目は失ったが、市民の保存活動が実り、現在も散歩道として愛されている。写真は境橋上流の様子。
戦後すぐの面影を残す「ハモニカ横丁」(1957年(昭和32)年)
「ハモニカ横丁」は、路地沿いに小さな店がひしめく光景がハーモニカの吹き口に似ていることから、こう呼ばれるようになったという。この付近は、かつて闇市が立っていた場所であった。周辺は再開発や街並み整備で姿を変えていったが、横丁の細い路地は現在も残っており、当時の面影を垣間見ることができる。

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