写真でひもとく街の成り立ち

このまちアーカイブス
柏を含む下総台地上の一帯は、もともと江戸幕府が軍馬育成のための牧を敷いていた土地だった。明治時代の幕開けとともに、牧の開墾が始まり、利根川と江戸川を結ぶ水運事業を経て、やがて柏に鉄道の時代が訪れる。「柏」駅の開設とともに経済が動き出すと、商業だけでなく文化、娯楽にも広がりを見せた。戦前戦後にかけて村から町、町から市へと発展を遂げ、戦後の高度経済成長を経て首都近郊の一大都市へ。何気ない街並みも、歴史をひもとくと、またちがった表情を見せてくれる。
手賀沼
水の流れ、過客の往来
柏といえば何を思い浮かべるだろうか。ストリートミュージシャン、「柏レイソル」、裏柏(うらかし)…若い人ならそういう具合かもしれない。仕事で行き来する人なら、交通の要衝としての柏を思うだろうか。水戸街道、国道16号、JR常磐線、東武野田線。さらに遡ろう。柏といえば、川を思い出す人もいる。
そう、柏は川に育まれた土地だ。
市内には、手賀沼に注ぎ込む大堀川、手賀川、大津川、そして北部を流れる利根川。市外まで見渡せば、流山市をはさんで江戸川、そして流山、野田、柏の3市をまたぐ利根運河。これだけ多くの水流が存在する。
柏という土地の名前の正確な由来は分かっていないが、一説には「河岸場(かしば)」が転じて「かしわ」となったとも言われている。
国道6号が大堀川と交差する呼塚辺りの河畔は「呼塚河岸」と呼ばれ、手賀沼沿岸の村から高瀬舟やさっぱ舟が新米を積んで往来したという。当時を偲ぶ大きな常夜灯が「北柏」駅付近の北柏橋のたもとに今も残っている。元々は呼塚河岸にあって過客の往来を見守り続けていたが、交通手段が水運から鉄道に移ったことで役目を終え、今では歴史の証人として川縁にひっそり据えられている。
明原辺りに残る林
代々の繁栄へ、願い込めて
土地の名前をひもとくと、そこに歴史が見える。
柏の街は、かしわの樹が多かったから「柏」となったわけではない。けれども、柏市の市の木は、その名前にちなんでかしわの樹になっている。
英名ジャパニーズ・エンペラー・オーク。ブナ目ブナ科の落葉樹であるかしわの樹について、一番なじみ深い部分といえば、柏餅を包んでいるあの葉っぱだろう。落葉樹にもかかわらず新芽が出るまで古い葉が落ちないことから「代が途切れぬ」といわれる縁起物。そうした思いもまた先人が付けたこの土地の名前に込められているにちがいない。
野馬追や将軍の鹿狩が行われていた小金牧の農村が、明治の御一新を経て、新たに都市として発展の道を歩み始めた。以来、それぞれの時代で異なった表情を見せてきた。
「柏」駅西口から明原や篠籠田辺りまで下りていくと、住宅街の中に鎮守の森のような大樹の茂る林が現れる。「今では木々を残した山や林もすっかり減ってしまって…」と昔を知る人は寂しげに言うが、若い人や市外から訪れる人にとってはきっと驚きの風景だろう。かつて柏の地にも緑あふれる風景があったことを知らせる掛け替えのない財産だ。
柏には「千代田」という地名もある。自分たちの土地に代々の繁栄を願う名前だ。「柏」にも、「千代田」にも、同じ思いが込められている。
現在の「柏」駅西口周辺(国道6号沿い)
先人の拓いた街並み
現在は駅の東西で賑わいを見せる柏の市街地だが、明治時代に駅が開設されて以来、半世紀以上にわたって街の中心は東側だった。豊四季、明原、篠籠田、呼塚など西口の各地区は長らく街の発展から取り残されていたが、現在のような賑わいを見せるまでに発展した背景には、そうした状況を憂慮した人々による「柏」駅西口開設の運動があったことも忘れてはいけない。
柏が町制だった時代から町議会議員、市議会議員を歴任した故・増田保氏は、西口の篠籠田(当時の千代田村)で生まれ育ち、西口の発展を願ってその運動の先頭に立った一人。同氏が1983(昭和58)年に上梓した私家本『柏駅西口開設の思い出』には、署名活動や資金集めに奔走した当時の様子や胸内の熱い思いが丁寧に綴られている。
その中で印象的なのが、念願叶って発展を遂げた西口をふと仰ぎ、かつての面影がすっかり失われてしまったことに自省と寂しさをにじませた一節。
「広場の一端に佇めば、昔日の面影はいずこにも残っていないことに気付くのである。僅か四分の一世紀の歳月は、春草の萌え出た小さな流れ、狭い谷津田、松林のたゝずまい、赤土を盛り上げただけの西口三号線市道、石灰粉を降りこめたような新国道等々、跡片もなく変え尽くした。」(原文ママ)
明治に生まれ、平成の夜明けを見る前にこの世を去った増田氏。『柏駅西口開設の思い出』が綴られた時から30年以上が経過した今、さらに様変わりした柏の街と西口界隈を、かつての名士ならどんな思いで見つめるだろう。

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