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明治期を迎えるまでの城南


九州の仏教文化の中心であった「油山」 MAP __

寺伝によると、敏達(びだつ)天皇の代(572年頃)に天竺から渡来した僧、清賀上人が白椿の大樹に千手観音像を刻み、安置したことに始まる。また、山の椿の実から油を採り灯火に用いることを教えたといわれ、「油山」の地名の由来となった。敏達天皇の勅願により七堂伽藍が整えられ、東西油山に720の僧坊を擁する一大霊場に発展したという。1191(建久2)年、天台宗の教義を学んだ僧、聖光房弁長が「油山」の学頭(大寺院の学事を統括する僧)となり、九州の仏教文化の中心として発展(弁長はその後、法然上人の弟子となり、のちに「浄土宗第二祖」「鎮西上人」などとも呼ばれている)。西油山にあった「天福寺」については江戸中期に編纂された『筑前国続風土記』以前の文献資料には記述が見つかっていないが、出土品などから平安後期の11世紀末には建立されていたと考えられており、現在の時点では滅亡の原因は不明、滅亡した時期は14世紀半ば頃と考えられている。1337(延元2/建武4)年には平田慈均(へいでんじきん)が「東油山」の地に禅宗寺院「東油山泉福寺」を中興。「油山観音」の名で知られる「木造聖観音坐像」は南北朝時代の作とされ、1906(明治39)年に国の重要文化財に指定された。安土桃山時代の天正年間(1573~1592年)の兵火で全山が炎上、観音堂が残るのみとなったといわれ、江戸時代になり、福岡藩の第二代藩主黒田忠之、第四代藩主綱政により諸堂が再建され、1694(元禄7)年に寺号が「正覚寺」と改められた。

写真は1923(大正12)年頃の「油山観音」と「木造聖観音坐像」。【画像は1923(大正12)年頃】

写真は現在の観音堂付近の様子。2004(平成16)年に「清賀山油山観音」が正式な寺号となった。近年は「ひばり観音」のある寺院としても知られている。1989(平成元)年、52歳で亡くなった美空ひばりの歌に感動した福岡市在住の彫塑家が、1991(平成3)年に石膏像を奉納、翌年、石膏像を基にした青銅像が作られ、1994(平成6)年には観音堂となる「雲雀堂」が完成した。毎年命日には「ひばり観音供養祭」が開かれている。

福岡藩黒田家の別邸に始まる「友泉亭」の歴史 MAP __

福岡藩第六代藩主、黒田継高は江戸中期の1754(宝暦4)年、早良郡田島村(現・城南区友泉亭)に別邸「友泉亭」を建て、「樋井川」(ひいかわ)の流れと湧き水を水源とする池泉をもつ庭園を設けた。1878(明治11)年、田島村ほか周辺4ヶ村は連合して「友泉亭」を買い取り、「友泉小学校」を設けた。1886(明治19)年に「友泉尋常小学校」と改称、1903(明治36)年、下長尾に移転し「長尾尋常小学校」(現「福岡市立長尾小学校」)となった。また、1889(明治22)年に田島村をはじめ周辺の8ヶ村が合併し樋井川村ができると、「友泉亭」の建物に「樋井川村役場」も置かれた。写真は1923(大正12)年頃の「樋井川村役場」。【画像は1923(大正12)年頃】

1928(昭和3)年に『炭鉱王』として知られる貝島家が取得、1936(昭和11)年に別邸が建てられた。戦後は、貝島系列など民間企業が所有、社宅・寮などとしての利用を経て、1978(昭和53)年に福岡市が寄付を受け、池泉回遊式庭園として整備され、1981(昭和56)年から「友泉亭公園」として、一般公開された。写真は1936(昭和11)年に貝島家の別邸(現在の本館)として建てられた建物(2008(平成20)年の撮影)。

鎌倉時代の武将、菊池武時を祀る「菊池神社」 MAP __(菊池神社) MAP __(菊池霊社)

「菊池神社」には鎌倉時代の肥後国(現・熊本県)の武将、菊池武時(きくちたけとき)が祀られている。武時は、1333(元弘3/正慶2)年、後醍醐天皇の鎌倉幕府倒幕の呼びかけに応じ、博多(現「櫛田神社」近辺にあったといわれる)の「鎮西探題(ちんぜいたんだい)」の北条英時を攻めるも討ち死にとなるが、南北朝時代になると、武時は忠臣として称えられ、一族は九州南朝方の中心として活躍した。武時が討ち死にとなった際、馬上から首が六本松で、胴が七隈で落ちたという言い伝えがあり、七隈の「胴塚」とされる地に、江戸後期の1831(天保2)年、菊池一族の遠い子孫である福岡藩士、城武貞が墓碑を建立、翌年「没後500年祭」を挙行。1869(明治2)年、最後の福岡藩主黒田長知(ながとも)の命により神殿・拝殿が建立され「菊池霊社」と号された。1919(大正8)年、七隈の氏神である「埴安神社」が当地に移転合祀され村社「菊池神社」となり、1933(昭和8)年には「武時公六百年祭」が挙行された。【画像は1938(昭和13)年頃】

現在の「菊池神社」。1983(昭和58)年の「武時公の六五〇年式年御遷宮」 で神殿・幣殿が建て替えられている。

「首塚」とされる馬場頭(現・中央区六本松)には、「没後600年祭」に際し、1932(昭和7)年に「菊池霊社」(七隈の当初の社名と同じであるが別のもの)が建立されている。【画像は1938(昭和13)年頃】

現在の「菊池霊社」。「菊池児童広場」が隣接している。

『維新の母』野村望東尼の「平尾山荘」 MAP __

野村望東尼(ぼうとうに、本名もと)は、幕末の1806(文化3)年、福岡藩士の浦野家に生まれた。和歌や書道を学び、1829(文政12)年に野村貞能(さだよし・前名貞貫(さだつち))と結婚、夫婦で歌人・大隈言道(ことみち)の門下に入った。1845(弘化2)年、長男に家督を譲り「平尾山荘」に隠棲、平尾の自然に囲まれながら、歌を中心とした生活を楽しむが、1859(安政6)年の夫の死から、受戒剃髪して法名「招月望東禅尼」を授かり仏門に入った。このころから望東尼は「勤王運動」を陰で支え、「平尾山荘」は、平野国臣(くにおみ)、中村円太ら、倒幕派の密会の場となり、九州を訪れた高杉晋作もかくまった。その後、福岡藩で佐幕派の勢力が強くなると、1865(慶応元年)、流罪となり姫島(現・糸島市)に流された。翌年、高杉の命を受けた志士らの働きにより姫島からの脱出に成功、長州(現・山口県)下関にかくまわれた。1867(慶応3)年、下関で高杉の死を看取ったのち、同年、三田尻(現・山口県防府市)で没した。【画像は大正~昭和戦前期】

「平尾山荘」は1909(明治42)年に復元され、現在は福岡市が管理している。毎年、命日である11月6日には望東尼の慰霊を偲ぶ「望東尼祭」が行われており、2016(平成28)年には「野村望東尼150年忌祭」として行われた。望東尼は、高杉晋作をはじめ、「勤王運動」を支えてきたことから、『維新の母』とも呼ばれている。


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※本ページにおける『福岡 城南(地区)』とは、1889(明治22)年に誕生した当初の福岡市域に隣接する南側一帯(現在の城南区、南区、早良区南部、中央区南部とその周辺)の総称として使用している。

※「九州鉄道」(現「西日本鉄道」)は、1938(昭和13)年に「地方鉄道法」(のち「鉄道事業法」)に変更されるまで、「軌道法」による電気軌道であったため、変更以前の駅名の表記は、正式には「停留場」であるが、本ページでは便宜上「駅」で統一している。



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