100歳を超え、無理せず自立。
頑健な身体と、悲観しない心が幸せを呼ぶ

99歳で長年続けた履物屋をたたみ、100歳で「将棋倶楽部」をオープン。そんな元気なシニアがいると聞いて、さっそくお話を伺いに行った。大正・昭和・平成、そして4つ目の元号を生きようとしている中村さんは、今何を思うのだろうか。そこには、我々がこれから高齢化社会を生きていくためのヒントがあるかもしれない。

大正・昭和・平成の世を生きる

「あの時の地震はすごかったね。地面が波打って、俺は這うように家に帰ったんだ」

中村さんが語るその地震とは、東日本大震災でも阪神・淡路大震災でもない。大正12年の関東大震災のことなのだ。その時、中村さんは5歳。家の近くの寺でお菓子が配られるので、待っていたのだという。

歴史の教科書にある事件についての生きた証言が、その後のインタビューでも中村さんの口から次々と語られた。記憶も明晰で、あたかもその時代にいるかのようなリアルな語り口に思わず引き込まれる。

実家は長く続く履物屋である。中村さんは、小学校を出た後、調布にあった履物問屋・石森商店に丁稚奉公に出て、20歳まで働いた。注文をされた履物を都心まで届けに行くことも多かった。

調布から神楽坂まで、
商品のお届けはリヤカー付き自転車で

今でこそ「調布から新宿」といえば京王線の特急に乗れば15分ほどだが、当時はまだ電車は通っていない。中村さんは、自転車の後ろにリヤカーをつけ、週に一度は調布から新宿、九段、神楽坂といったところまで配達に回っていたという。

当時の甲州街道はまだ舗装されておらず、自転車のパンクも日常茶飯事だった。親方から、都度パンクをしたときの修理代と昼飯代として3銭をもらい、荷物を載せたリヤカーで片道20キロほどの道のりを往復する。甲州街道には何カ所かきつい坂があり、そうした坂の下では「押し屋」と呼ばれる屈強な男たちが待っていて、1銭でリヤカーを押してくれる。しかし、昼飯代を削りたくない中村さんは、押し屋に頼まず自力で上っていた。中村さんの足腰は、自然と強靭に鍛えられた。

中村 弘
東京都出身。大正7年生まれ。戦後親から継いだ中村履物店を2017年に閉店し、その後、将棋倶楽部をオープンした。

忘れ得ぬ、冬の日のこと

冬のある寒い朝。前の日に降り続けた雪は、すでにやんでいた。その日、中村さんは品物を九段まで届けることになっていた。ところが、甲州街道から九段へと抜けていく道がなぜか封鎖されており、通れない。環八まで戻って青梅街道から向かおうとしたが、ガード下も封鎖されている。やむなく落合に出て、ぐるりと遠回りをして九段まで行かなければならなかった。

物々しい雰囲気で、一体何が起こったのかにわかにはわからなかったが、それは二・二六事件だった。岡田内閣総理大臣の家が新宿近くにあったため、付近一帯が封鎖されていたのだという。昭和11年2月26日。中村さんは18歳だった。

戦争へ。戦艦大和に乗り、
山本五十六の死地へ赴任する

昭和13年。中村さんは20歳になった。

「今は20歳というと成人式だけれど、当時は20歳というと徴兵検査だったね。身体検査をして、軍隊へ行く者とそうでない者とが強制的に分けられたんだ」

甲種合格なら軍隊へ。体に障害があったり背が低かったりすれば第二乙種となり、兵役は免れる。中村さんは背が低いため、第二乙種となり、すぐに兵役につくことはなかった。

しかし、戦況が悪くなってくると、中村さんのもとにも召集令状はやってきた。昭和18年5月に横須賀の海兵団に入り、千葉県の館山海軍砲術学校で訓練を受けた後、ソロモン諸島のブーゲンビル島に赴任した。ブーゲンビル島といえば、その年の4月に海軍大将・連合艦隊司令長官である山本五十六が撃墜されて死んだ島だ。中村さんが戦艦大和に乗って戦地に向けて出発したのは、昭和18年8月のことだった。

「行くときは、戦艦大和に乗って行ったんだよ。ありゃあ、でかくてすごい船だよ。主砲を跨ごうとしたら、両足がピーンと伸びちまって跨げなかったよ。そのぐらい大きいんだよ」

それから終戦後まで、中村さんはブーゲンビル島及び周辺の島で過ごすことになる。

「墓島」と呼ばれたブーゲンビル島に2年余滞在。
生き抜く

ブーゲンビル島では、昭和18年から20年8月まで戦闘が行われた。投入された日本軍はおよそ6万人。そのうち3万人近くが戦死。多くは、餓死やマラリアなどによる病死だったといわれている。陸軍では、くるくると変わる指揮系統に翻弄され、状況判断のもとに後方退却を決断した連隊長は「敢闘精神に背く」として非難を受け、多くの兵士が命を落とし、「墓島(ぼとう)」と呼ばれた(ブーゲンビルは当初ボーゲンビルといわれていたため、ガダルカナルを「餓島=がとう」と呼ぶのに比して墓島と称された)。

中村さんの属した海軍でも、祖国の地を踏まずに死んでいった者は数多い。

中村さんと同じ部隊にいた佐久間孝司さんの手記を読ませていただいた。マラリアで苦しんで亡くなった人、敗色が濃くなる中、本土と連絡が取れず、精神的に追いつめられていく人、あるいは食べ物がなく、芋の茎やトカゲなどを食べて何とか生き延びる人たちの過酷な様子が書かれている。

当初、中村さんが赴任したのは、ブーゲンビル島南端のブインである。赴任当時のブインは、日本軍の最前線基地だった。

ここで当時の状況を補足しておこう。
ムンダ・コロンバンガラ島での戦闘の後、日本軍はブーゲンビル島まで撤退を余儀なくされた。アメリカ軍の上陸はブーゲンビル島の南方にある日本の最前線基地ブインだと考えられ、日本軍は迎え撃つべく準備を進めたが、昭和18年11月23日にアメリカ軍が上陸したのは日本軍の戦力が手薄な北部のタロキナ湾だった。もしアメリカ軍の攻撃が予想通りブインであったなら、中村さんの今はないかもしれない。

戦争さえなければ天国のような島で、
魚を獲って暮らす日々

おそらく、つらい経験、大変な経験も語りつくせぬほどあっただろう。しかし、中村さんの口から語られるのは、そんなことを感じさせない、どこかのんびりとした話ばかりなのである。どんなに過酷な話を聞かされるかと姿勢を正して聞き入る筆者に、中村さんは語る。

「ソロモン諸島って、小さな島が100以上もあるんだ。俺の任務は、その島に取り残されていた日本兵を救出することだった。夜になると、小船で小さな島をひとつずつ訪ねていくんだ。5人で組んでいたんだけど、そのうち俺を除く4人は全員漁師でな。魚を取るプロだろ? 魚が豊富なソロモン諸島で魚を獲っていたから食料不足にも縁がなくて、帰国をした時には丸々太っちゃって、みんなから『あいつ、食っちゃおうかな』なんていわれたんだよ。運がよかったよ。ハハハ」

「海岸はずっと100メートルくらい砂浜でさ。ヤシの木があって、サンゴ礁があって、いいとこだよ」と言ってから、「戦争がなきゃな」と付け加える。

オートミールに感激した捕虜生活。
「蛍の光」に送られて帰国

終戦後は2年ほど捕虜になっていたが、その後帰国。捕虜時代には、「オートミールというおいしいスープ」をいただき、感激したという。帰国する時には、現地の人たちが、中村さんたち日本兵と交流するうちに覚えた日本語で「蛍の光」を歌って、名残を惜しんでくれた。

海軍が実施した現地民宣撫作戦では、現地民の物資を盗むことは厳禁し、犯すものは銃殺に処した。日本式農園を教え、収穫物の半分を現地民にやり、半分は日本軍が取る。そのほか、塩、スコップなどの作り方も教えた。学校をつくるなど、物資がない中で現地民を同等に扱い、その暮らしをよくすることで、日本軍の後方部隊をつくろうとするものだった。その作戦はもちろん中村さんが企図したものではないが、現地民との関係が良好であったからこその「蛍の光」だったのだろう。(ブーゲンビル島の戦闘及び現地民宣撫作戦については、藤本威宏著『ブーゲンビル戦記』に詳しい)

99歳で店をたたみ、100歳で将棋クラブをオープン!

帰国後は実家の「履物屋」を継ぎ、すぐに生計をたてることができた。
ほどなく結婚し、お二人のお子さんにも恵まれる。人々は下駄をはかなくなり、次第に生活が苦しくなったが、一体どうやって切り抜けてきたのか聞くと「忘れちゃったよ」。 今は、40歳になった孫と気ままな二人暮らしを楽しんでいる。

99歳まで履物屋を続けていたが、一昨年に店をたたんだ。でも何もしないのはつまらないと、すぐに店をリフォームし、「将棋倶楽部中むら」をオープン。2017年5月には、100歳を迎えた。

入り口を入った正面に、孫が掲げた「HAPPY BIRTHDAY 100」の大きな飾り。「英語だから、なんて書いてあるか、俺には読めないけどな。ハハッ」

「将棋倶楽部中むら」の中は、テーブルがいくつか置かれ、将棋盤は指し手が来るのを待っているが、取材日は閑古鳥の態で、来客はちらほら。「将棋をやっている暇はないんだけど」と言いながら入ってきたのは、近くに住むお寺の住職さんだ。中村さんとは長い付き合いで、定期的にサンダルを買いに来るそう。中村さんのお人柄について伺うと

「中村さんは、優しい人なんです。記憶力も素晴らしいですよ。私も80歳を過ぎているが、私より15も年上なんだからねえ」

しばらく世間話をして、帰っていった。

長寿の秘密は、強靭な基礎体力と自立心

実際に中村さんに会う前は、100歳まで生きた人は、5時に起きて体操や散歩をして、粗食だがきちんとした料理をつくっている。毎日欠かさない習慣がある……、そんなイメージを抱いていたのだが、少し印象が違った。

足腰は丈夫だ。来客が「昨日はいなかったねえ」と話しかけると、「昨日かい? ああ、(地方に住む)息子が来るというから、墓の掃除に行ってたよ」と話していたので、密かに筆者は驚いたのである。100歳で墓掃除? 肉体が健康で、強い自立心がなければできることではない。視力は0.8と1.2。老眼鏡がなくても新聞を読めるという。

人間は年をとると、次第に悲観的になっていくものだ。「あそこが痛い」「ここが痛い」「あの時はつらかった」「あいつも死んでしまった」「どうせ…」「仕方がない」……、そんな愚痴が増えていく。しかし、中村さんは、違った。常に自然体で、あるがままの現実を受け入れ、悲観的な考えを心の外にそっと追いやるのがうまいのだ。

「インターネットは、あんまりよくねえよ」

座右の銘などはない。そんな大それたものはないのだ。朝は8時ごろに起きて、果物を少々食べる。午前中は、店のシャッターを半分開ける。「将棋倶楽部」は午後からオープンだが、誰でも入ってこられるように半分開けておくのだ。本や新聞を読んで、のんびり過ごす。

昼は、孫がつくっておいてくれたおにぎりを2つばかり食べる。午後になれば、シャッターを全開にする。あまり人が来なくて、つまらないときには、コンビニに行ったり碁会所に行ったりして、友達と話す。

長生きの秘訣なんてものもない。しいていえば「人との交わり」だそう。インターネットはあまり好きではない。「だって、誰もいなくても、用が足りちゃうだろ? 良し悪しだな。ありゃ、あんまりよくねえよ。生身の人と話さないとさ」

夜には、孫と一緒にご飯をつくって肉やら何やら食べるし、コンビニに行っておかずを買うこともある。

大正生まれの中村さんは、今の日本をどう思っているのだろうか。
「平和だよなあ。何の事件もなくて。オウム事件とかあったって、あれは自分たちが納得して一方的にやったわけだろ。二・二六事件の下士官たちは自分たちが反乱軍とは知らずに、適法と思って出動していたんだからなあ。大変な時代だったよ」

戦争を知る世代からみれば、今の世の事件など、「どうということはない」のかもしれない。どんな現実をも受け入れ、飄々として生きてきた中村さんの生き様に、筆者は正直、とてもかなわないと思った。150センチ50キロにも満たない小柄な中村さんが、時折、とてつもなく大きくも見えるのだった。

(取材・文:宗像陽子 写真:金田邦男)

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