土をこね、炎を読み、天命を待つ。
豪放・素朴な備前焼を真摯に作り続けて

力強く素朴な味わいを持つ備前焼は、土作りから始まり1年以上かけて作品を生み出していくという。故郷を離れ、土と炎に対峙し創作活動を続ける、友利幸夫さんにお話を伺った。

野宿の旅の末にたどり着いた「備前」

瀬戸内海と小高い丘に囲まれた穏やかな土地、岡山県備前市。備前焼作家の友利さんがここに住み始めたのは今から30年ほど前のことだ。

沖縄・宮古島出身の友利さんは、小さいときからものつくりが好きだった。休みの日には朝から晩まで何かしら作っているような少年だったが、焼き物とは縁がなかった。宮古島は薪となる木がなく、焼き物の文化が育たなかったためである。高校3年生の時、大宜味村で初めて焼き物作りとその魅力を知り、高校卒業後は陶房で住み込みをしながら焼き物に没頭していたが、陶房の移転を機に、沖縄を出た。

二十歳を少し過ぎたばかりの若き友利さんは九州、四国、伊賀、信楽と、野宿をしながら各地の焼き物を見て周る旅を続ける。半年ほどたった10月、秋風が身にしみ、そろそろ野宿もつらくなり「屋根のある生活がしたくなってきた」ところでたどり着いたのが、備前だったそうだ。そこで知り合った備前焼作家に「10月から3ヶ月、忙しいから手伝ってくれないか」と言われる。それが友利さんの生き方を決めた。

友利幸夫
1965年生まれ.沖縄出身。備前市在住。津波山陶房(沖縄県大宜味村)にて陶芸の道に入る。1987年、備前焼作家・末石泰節に4年間師事。1999年独立・築窯・初窯。その後毎年、東京・福島・千葉・大阪・愛媛・宮古島などで個展を開く。

勝負は窯入れと土の雰囲気

備前焼の魅力は、土そのものの素朴な風合いと、炎がもたらす不思議な景色だ。

備前焼で使われる土は、田んぼの下から掘りだした鉄分を多く含んだきめ細やかな良質の陶土である。土そのものを焼き上げる無釉の焼き物が備前焼の個性を高め、安土桃山時代の茶人たちにその価値を認められた。

釉をかけないから、土の素朴な味わいがそのままに出る。ゆっくりと時間をかけて焼きあげるから、赤松を燃やした炎を多く浴び、それがさまざまな不思議な景色を表面にあらわしていく。

作品の形作りもさることながら、「窯入れ」のときにどういう位置にどの作品を置くか、が出来不出来を左右する。友利さんも「勝負は窯入れと土の雰囲気」と言う。

窯入れは、成型した作品を窯の中に入れる作業だが、単に中の棚に順番に並べればいいというものではない。

備前焼がさまざまな表情をもち、一つとして同じ模様を見出すことがないというのは、理由がある。窯の中では、炎が対流を起こしつつ上から下へと作品をなめていく。炎の当たる面により、作品を彩る色が変わるのだ。

器に巻いたわらの跡が発色する「火襷(ひだすき)」。
薪の灰がふりかかり、ぷつぷつとごまをまぶしたような文様になる「ごま」。
わざと作品の上に別の作品を置いて、直接火があたるのを避けることで色が抜ける「ぼた餅」。

これらの模様をどのように作品の上に描き出すか、あらかじめ出来上がりを頭の中にイメージする。出したい模様を出すためにはどの位置に置けばいいのか。縦に置くか、横に置くか、手前か、奥か。どのタイミングで薪をくべればいいのか。川の本流のように、上から流れてくる炎。傍流のように横からくる炎。飛び散る灰。燃える藁。炎や灰の特徴を押さえ、把握しつつ、窯に入れ、薪をくべていく。

「パズルを組み立てるように考えに考えて入れていくから、窯入れの作業は、頭脳労働。頭がパンパンになっちゃうんですよ」

取材の1週間ほど前、関西地方を大型台風が通過し、天気は大荒れとなったが、友利さんは窯入れの最中で作業に没頭しており、気づいたら台風は去っていたそうだ。その集中力たるや。人と口をきくこともなく、黙々と作業に励む。

炎が織りなす、人智を超える芸術

窯入れが終われば、「窯焚き」が始まる。

取材日は、窯入れが終わり、窯焚きが始まって2~3日たった頃だった。窯のそばに近づくとほんのりと温かい。窯の中の温度はまだ200度前後。このあと8日ほどかけて1,250度まで温度を上げ、じっくりと焼き締めていく。

「窯入れは頭を使うけれど、窯焚きは体力勝負です」

窯の前には、見上げるほどの高さに積み上げられた赤松の薪が、出番を今や遅しと待っていた。それが一本残らずなくなるまで、窯の横にいくつかある焚口から、1本1本くべていく。

緻密に計算しつくした上での窯入れや窯焚きであっても、炎の気まぐれは時として、思いを手ひどく裏切ることもあれば、人の発想をやすやすと飛び超えたものを眼前に見せることもある。

「作り手としては『こんなはずじゃなかった』というのが、備前焼の面白いところかな」

追求しても追求しても手の届かない、太古から変わらぬ「土」と「火」という自然の偉大さに対峙する思いであろうか。

「土」を見極め、原土を「自分の粘土」へ変えていく

備前焼作りは、田んぼの底に堆積する鉄分を多く含む土を、冬の農閑期に専門業者が掘り始めるところから始まる。今では田んぼの底を6メートルほども掘り下げているそうだ。その情報が流れると、作家たちは現場に三々五々集まりだす。掘り出す場所によって土のきめが細かかったり、砂がまじっていたりと個性が違うから、しっかり吟味して購入するかどうかを決める。気に入れば購入し、乾燥させて細かく砕く。2ミリにするか3ミリにするか、どの程度の細かさにするかは個人の好みだ。友利さんはぶつぶつした粗目の土がふくよかで好みだし、もっとつるんとした風合いにしたくて細かい粒子にする作家もいる。

その粘土をできるだけ長期間貯蔵して、さらに乾燥させる。しっかりと乾燥させないと歪みが出たり、割れたりとトラブルの原因となってしまう。

自然や芸術の残像、記憶の底からアイデアを

友利さんは、ごつっとした粘土の塊を前にして「花を活けるなら、どういうふうに活けようか」「皿なら、どんな料理を置きたいか」と発想を膨らませていく。ヒントとなるものは、美術館で観た作品であったり、何気ない風景だったりすることもある。引き出しがあればあるほど、アイデアは膨らんでいく。

「最近は、昔の記憶が不意に浮かんでくることもあるんですよ」

作品を表現する上で、どこか無意識のうちに、沖縄の風景は封印しているようなところがあった。ところが最近「沖縄の雰囲気が出ているね」と言われることが多くなってきた。

「なぜだろう? 例えば、枝のようなものを作ったら、思いがけずデイゴの木の軸に似ていたり。沖縄に多くいたヤモリがアイデアのヒントになったりすることもあるんですよ」

年を経るにつれ、素直に沖縄を出してもいいんじゃないかと考えるようになり、今は、より素直に、より自由に作品の幅を広げている。

窯焚きは年に1回のみ。その1回に精魂を込める

若い頃に到来した備前焼ブームのときには、年に2回窯焚きをしていた。湯飲みや茶碗といった日常使いのものを数多く作り、その合間に個性的な作品を入れていく。しかし、窯をいっぱいにせず時間も短めだと、焼きも甘い。灰の量も薄いからどうしても浅い焼き具合になってしまい、深みがないと感じるようになってきた。

今では、窯焚きは年1回にして、そのかわりひとつひとつを丁寧に作って行こうと考えるようになった。1回となると、緊張感も格別だ。作品もこねては壊し、また最初からといった試行錯誤が続く。

窯焚きが終わり、作品が出来上がれば、お客さんに案内をし、再び粘土作りの作業へとりかかる。こうして瞬く間に一年は過ぎていく。

使うほどになじみ、食材を引き立てる備前焼

ごつごつと武骨な印象の備前焼は、使えば使うほど味が出ると言われる。

「いい備前焼にするのは、作家の力は、7割。あとの3割は、お客さんが毎日洗って使って触って、なでて、成長させるんです。そうしてよい器にしていくんです」

実は筆者も備前焼のビアマグを持っている。戴き物で、最初は武骨すぎて少し敬遠していた。しかし、使っていくにつれ、いつの間にか手にしっとりとなじむようになってきた。今では手放せないお気に入りとなっている。

「買ったお客さんが『こんなに良くなりました』と見せに来てくれることもあるんですよ」

そんなときはとてもうれしいと友利さんは言う。

大鉢にどんと料理を乗せて自宅で客をもてなしたり、床の間に大きな壺を飾ったりといった生活様式から、世の中は変わりつつある。家でのもてなしは減り、リビングに床の間はなく、キッチンはいつもピカピカで料理をしない人も増えている。そんなライフスタイルの中で、備前焼は新たな価値を私たちに提示してくる。小さな小鉢にピーナツを2、3粒。あるいはチーズをひと切れ。極上の刺身を2,3切れ乗せるのもいい。凝った料理は必要ない。ほっとしたい週末や特別な夜に、いつもと違う食卓の演出をしてくれる。シンプルだけれど品よくありたい生活に、備前焼はよく似合う。

普段使いできる食器のほか、友利さんのギャラリーには「休日に見る時計」(大体何時かわかればいい)とか、縦にも横にもできる花器(路傍の花から豪華な花、スッと丈のある葉など、いかようにも楽しめる)など個性的で楽しい作品がたくさん並べられていた。それらはどれもどっしりと存在感を放ち、「生活を豊かに楽しむ」「シンプルだけれど上質」といった“友利流”に貫かれていたと思う。

「誰が見ても『友利が作った作品だね』と言われたいんですよ」とちょっと恥ずかしそうに友利さんは語る。

次こそもっといいものを。簡単には引き下がれない

いつまで作家をやれるだろうか。ときどき友利さんは考える。一人暮らしで弟子もいない。不安がよぎることもなくはない。まだ両親が健在なうちに宮古島に帰ることも考えたが、薪のない宮古島で備前焼を作ることはできない。

今まで必死に備前焼作家としてやってきた。値段をつけてお客さんに買ってもらってきた。疲れたからやめるというわけにはいかないと、友利さんは思う。

「自分の作品に納得できたら辞めようかと思ったが、納得なんてできないんですよ。次こそはもっといいものを、次こそはと思ってしまって。簡単には引き下がれないという思いです。今は、続けることが一番大事なのかなと思っています」

もうひとつ、捨てきれぬ願望もある、それは、レンガをかき集めて今の窯の隣に4メートルくらいの小さな窯をもうひとつ作ってみたいという思いだ。違う焼け方をする窯で作品を作ってみたい。そこにはまた新しい驚きや、あるいは失望も、たくさん詰まっているはずだ。

友利さんが20年前にコツコツと積み上げて作った窯。夕暮れ時、窯から少し離れた庭から西方を見渡せば、平野の向こう側の小高い丘に光る水道タンクに、まっすぐ夕日が落ちていくのが見える。

「一仕事終えたあとに、ここに座ってビール飲んで、落ちる夕日を見ていると、もう明日なんか来なくていいと思っちゃたりしてね。でもね……」

孤独を友とし、真摯に焼き物を作り続ける友利さんが故郷に帰る日は、まだまだ訪れそうもない。

(取材・文:宗像陽子 写真:金田邦男)

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