時代に合わせてしなやかに変革しつつ、
伝統の染め物を次世代に継承する

古来からの日本文化である「染め物」。しかしいまや、染め物の文化は消えつつあるように見える。どうしたら染め物を継承していけるのか、もっと生活に根付いた染め物、時代にマッチした染め物はないだろうかと考え続け、ついに新しい発想で染料と技法を生み出し、いまも精力的に染め物を広めている人がいる。隆久昌子さんにお話を伺った。

何もない時代に育んだ「工夫して楽しむ精神」

隆久さんは昭和13年生まれ。物心ついたときには戦争が始まっており、小学校に入る年に終戦となった。どの家にも飾られていた天皇陛下の写真は外され、正しいと思っていたことが覆され、昨日の常識が今日の非常識に変わる。そんな混乱の時代にあって、隆久さんの母は常にしなやかに、時代に合わせて工夫を重ねる人だった。戦時中は食べ物がなくなれば「代用食の講習会」を始めて好評を博し、物がなければ手元にある物を工夫してつくり出していく。衣類の染め替えやつくり替えを近所の女性たちと楽しんだり、編み物、組み紐、マクラメなどの糸遊びや、お手玉、人形、袋物づくりなどの布遊び、糸や布の染め遊びなどなど……。

「あの時代は誰でもそんな風に手づくりをしていました。その中でも特に母は、工夫をすることで生活を楽しんでいるように見えました」

隆久さんは、汚れた布が美しい色に染まっていったり、何の変哲もない毛糸から素晴らしいセーターが出来上がっていったり、美しい組み紐がつくられていく様子を見ながら育った。見よう見まねで6歳下の弟のおむつカバーをつくったのはわずか7歳の頃だという。羊の毛を刈って精製し、紡いで染めて模様編みをしてセーターを完成させたのは10歳だとか。その時の達成感は今でも忘れられないという。

手づくりの楽しさは、何にも代えられない。隆久さんは、母から教えられる“なんでも手づくりの精神”で、物はなくても精神的に豊かな子ども時代を過ごしてきた。

そして両親は、些事に惑わされることなく、本質を見極める人でもあったようだ。たとえば、レッドパージが吹き荒れる時代に、隆久さんがマルクス主義の本を読んでいるとたしなめるでもなく、賛美するでもなく「あ。それは左だね。左も悪くないかもしれないけれど、右も大事よ」と、いくつかの本を読むように教えてくれたという。

隆久昌子
北海道出身。1938年生まれ。1971年「隆久昌子の手作りネクタイ教室」発足。各カルチャースクールにて指導者の養成を行う。1998年アイロンを使った新しい染色「山の幸染め」を発表。全国でインストラクターの指導育成を行う。株式会社ハピネス代表取締役。NPO法人山の幸染め会代表理事。著書「花でたのしむ山の幸染め」「やさしい山の幸染め」ほか。

「染め物」という日本の文化を残すには

隆久さんが生まれ育った頃はどこの家にも染め釜や、洗い張り用の板があったそうだ。釜で染め上げ、板に布をぴんと張って干す光景が、ごく普通の暮らしの中にあった。もちろん北海道だけではない。沖縄を代表する染色法である「紅型(びんがた)」のように、日本の各地で様々な染色の技術や技法が古来から受け継がれていた。

「ここ新宿もそうですよ」と隆久さん。隆久さんの住まいと職場は、東京・新宿の神楽坂にある。新宿の地場産業もまた、染色であった。しかし明治以降、化学染料の登場とともに植物染料は姿を消し始め、さらに戦後、そのスピードは加速していった。

隆久さんの母方では、祖父母の代まで染屋をやっていたという。そのため、母の“色と染め”へのこだわりは深かった。その染め物に対する情熱と知識は、隆久さんに受け継がれていったのだった。

手を動かしながら話すことがストレスの発散にも

あれやこれやと手づくり活動を続け、昭和48年には「手作りネクタイを作る運動」を発足。やがて「暮らしのそめもの教室」といった活動も始まった。教室には女性たちの会話と笑いがあふれる。隆久さんはそんな光景を見て、こういった“輪になって手づくりを楽しむ”ことは、単に技術の継承だけにはない良さがあることを実感したという。

「結婚したての若い人が参加してきますでしょう。暫くすると旦那の悪口がいっぱい出てくるの(笑)。そうすると先輩のお母さんやおばあちゃんは『そうよねえ、最初はそう思うのよねえ』という聞き方をしてくれる。そのうちだんだん若い人も落ち着いて変わって来るんです。そういうのが生涯学習の基本で、大事なカルチャーなんだなあと気づかせてもらいました」

なるほど、手を動かしながらの愚痴は、吐きやすい。面と向かって相談するほどではないことでも、作業をしながらだと言いやすく、聞いてもらっているうちにいつの間にかストレス発散ができてしまうのは、よくあることだ。

そういえば、世の女性たちは昔から、井戸端会議にあるように、洗濯や農作業で手を動かしながら口も動かし、ストレスを発散したり悩み事を解決してきた。これと同じだ。チクチクと手を動かす楽しさ、人と人とが触れ合う楽しさ、そして作品が出来上がる達成感。そんな手づくり教室を広めながらも、ふつふつと消えることがなかったのは「染め物がこのまま消えてしまうのは耐えがたい」という思いだった。

大きな釜が場所を取り、手間暇もかかるから染め物が廃れる。ならば、手軽にできるものにすれば残るはずだ。その上で、自然を大切にする日本人の美意識はそのまま活かしたい。時代に合わせて柔軟に手づくりを続けてきた母を想いながら、隆久さんは現代に合わせた染め物をつくるために、技法から染色から、染め物に関するありとあらゆる研究を続けた。

場所も設備もいらない染め物の技術を開発

従来の染め物は、色素を水に溶かし、溶け出した色素を煮たり蒸したりと様々な方法を使って、繊維の中に色素をしみこませていくものだった。ところがある時、偶然の産物で、水で溶かさずガス化して繊維の中に浸透させるという方法が染色業界で生まれた。

「これは面白い! と思いました」と隆久さん。染め物普及を阻んでいた理由のひとつが、大掛かりな道具や設備だったからだ。ガス化させて熱で繊維に浸透させる方法であれば、アイロンさえ使えれば誰でも気軽に染め物を楽しむことができる。窯も水も要らない。この方法に出会った隆久さんは、実用化を目指してのめりこんで研究を続けた。

「これでどこまで日本の文化を継承できるか。いや、してみせようという気持ちでした」

そして40歳の頃、日々の実験の成果から、現在隆久さんが普及指導を続けている「幸染め(さちぞめ)」の原点となる手法を編み出した。そして染料や技法についてさらに研究を重ね、様々な方法の染め方を考案していった。

古来の方法とは全く違う新しい染め物「幸染め」

「幸染め」は、新しく開発した特殊なカラーマットを布地にあて、アイロンで熱を加えると、染料が気化して布が染まるというものだ。しっかりと繊維にしみこみ、うわべだけ着色するのではなく、深い色合いに染まるのが特徴。カラーマットをパンチなどで型抜きしたり、ちぎったり、自在にアレンジして布にあて、アイロンで熱を加えれば、自分なりのデザインを楽しむことができる。

押し花や押し葉を使えば、より高度な作品ができる。葉脈を染めた葉や花を布にあてて染めれば、あたかもボタニカルアート(植物細密画)のような緻密で美しい作品が出来上がる。

「自然の中に出て、花や葉を拾い、押し花や押し葉をつくるところから楽しめます。自然を見る目も変わってきますよ」

隆久さんはさらに20年ほどかけて、完璧な幸染めを目指して研究を続けた。実用性を追求するために、使用するすべての染料に毒性はないか、子どもが扱うときでも安全かどうか、他にどんな技法ができるか、を考えながら実験と検証を繰り返し、ついに1998年には「山の幸染め」を発表。安全性も確かめられ、60以上の新しい技法も生まれた。画像を映しこむ「転染」もできるし、文字を書くことも可能になった。

隆久さんは60歳になっていたが、「60歳って意外と元気! まだまだやれる」と一念発起。「NPO法人 山の幸染め会」を設立し、小学校の教育現場や障害者福祉センター、野外での体験会、老人ホーム、介護施設などにも活動の幅を広げている。

「幸染め」が自分の中の可能性を引き出してくれる

いま、山の幸染めは子どもから大人、お年寄りまで幅広い年齢層の人に愛されている。仕事へつなげる人もいれば、趣味として楽しむ人もいる。技法は60以上もあるから、好きなやり方を探りながらできる。簡単なのに奥が深いから、飽きない。

「何より面白いのは、お年寄りが元気になること」と隆久さんは笑う。

「だって、お年寄りはアイロンをかけるのが上手でしょう。季節の歳時記だって自然に頭に入っているから、今度は何を染めようかといったときにも、すっとテーマが浮かぶんです。『娘の節句のときにこんなことがあったな』といった思い出もよみがえるし、押し花や押し葉をやってみようとなれば、葉っぱや花を取りに外へ出るきっかけにもなります。手づくりなどを熱心にやっていなかった人でも、アイロンがけが上手だったり、絵心があったり、構成力があったり、色彩感覚があったり、何かしら自分の中の隠れた可能性を引き出してくれるのが、幸染めなんですよ」

お年寄りが尊重される世の中のために

80歳となった隆久さんだが、まだまだ元気いっぱいだ。

「毎日が感動なんです。これから幸染めを、たとえば障碍者の方や老人ホームで生きがいを見失っているような方たちに広めたり、社会復帰につながるような仕事にもできればと思うんです」

実際、銀座や原宿にある名の知れた店やさまざまなところから、幸染めの会の会員の作品を置かせてほしいと言われることも多いという。そういった引き合いや申し出は、隆久さんだけでなく、会員たちの何よりの励みにもなる。

シニアの役割とは何だろう。かつて「お年寄り」と言われた人たちは、子どもがまだできないことをサラリとやり、知らないことをなんでも知っている尊敬すべき存在であった。祖父母や近所に住むお年寄りたちは、日々忙しい親御さんの代わりに、子どもたちを愛情で包み込み、子育てを補っていた。決してやっかいものではなく、社会になくてはならない存在だった。

またそんな社会にするために、幸染めは貢献できる、と隆久さんは確信している。

「だから来年は『教育と福祉』をテーマにしようと思って。動画だって勉強して、誰でも簡単に学べるようにもしたいと思っています。やらなくちゃいけないことはたくさんあるの」

幸染めの普及は日本ばかりではない。今ではタイ、バンコク、韓国、台湾などへその活動は広まり、幸染めを楽しむ人が増えてきた。今年の春にはオマーンから「女性にも手に職を付けられるように、幸染めの指導者を養成してほしい」と要請された。今後は他の国からの要請も増えていくのだろう。

隆久さんは80歳を超えてなお、日々感動し、教えられ、学び、成長を続けている。

(取材・文:宗像陽子 写真:金田邦男)

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