自分の人生を3分間の歌に重ねて歌う。
還暦を過ぎて出会った、本当の愉しみとは

仕事一筋で働いてきた長い年月。還暦が近づいた頃、ふと我に返る瞬間があるのだという。そんなとき、人はどうやって次の道を求めていけばよいのだろう。会社経営者として長く働いてきた片岡さんにお話を伺った。「六十の手習い」で見つけたものは、彼女に何をもたらしたのか。

コピーライターとして働き始めて

JR恵比寿駅からほど近い『アートカフェ フレンズ』は、80人~100人ほどが入る、雰囲気のあるライブバーだ。著名人も多く出演する老舗で、片岡さんは、年に二度ほどここでライブを行う。ということは、歌がプロ並みにうまい人、もしくは、歌が小さな時から好きだった人なのかな? と思いきや、そうではなかった。

片岡さんは、60代半ばを過ぎて今なお会社社長としてバリバリ働くパワフルな女性だが、小さな頃は病弱で、体育などはいつも休んでいたという。ことに呼吸器系が弱く、喘息持ちだった。

そして、特に歌が大好きだったわけでもない。今でこそ、カラオケは娯楽として浸透しているが、古き昭和の時代では、女性はよほど得意でなければカラオケや人前で歌うことはそうなかったように筆者は記憶している。片岡さんも、接待でどうしても歌わざるを得ない状況になり、やっと1曲歌ったのは、40代になってからだったそうだ。

そんな片岡さんが、一体どうして恵比寿のライブバーで歌を歌うようになったのだろうか。

片岡さんは病弱だったせいもあるが、本を読んだり物語を書いたりすることが好きな女の子だった。学生結婚で早くに子どもができ、社会に出ないまま、書家である父親の手伝いをしながら主婦をしていた。やがて、生活費の足しになることもあり、書道教室を開いて近所の子どもたちに教えるようになる。当時はベビーブームで、住まいの近くの団地には子どもたちがいっぱいだった。

文章を書くことも好きだった。堤清二氏の主宰する同人誌に参加し、多くの知己を得たのもこの頃のことだ。その時の付き合いが後年、役立つこととなる。

書道教室で家計を助けつつも、次第に夫とはうまくいかなくなり、離婚を決断したのは30代半ばのことだった。もうすぐ長女は高1、次女は中学生という時期でもあり、同居していた夫の両親に子どもをひとまず預け、家を出た。

37歳にして家を出て、人生ではじめての一人暮らし。さてどうしようと途方に暮れているときに助けてくれたのは、かつての同人誌で知り合った友人達だった。時は経ち、かつての友人達はベテラン編集者であったり、企業の中の宣伝部や広報部で活躍していた。彼らの口利きで、コピーライターとして小さな会社に就職する。

片岡さんは、水を得た魚のように働いた。

「ただもう、がむしゃらにね。ほかのライターさんの2倍、3倍の仕事量だったのではないでしょうか」

片岡道子 千葉県出身。幼少より父・片岡筑翠(筑翠書道会長)を師として書を学ぶ。書道活動と並行して、広告の企画・ネーミングなどに実績を重ね、1990年、広告企画制作会社「オフィス片岡」設立。「株式会社タピーロ」に組織変更後も代表取締役社長を務める。コピーライター・インタビュアー・広告書道の業務の他、紀行文執筆や童話創作なども手がける。趣味と健康のために始めた歌手活動も精力的に展開。

“おひな様”とあだ名をつけられて

数年後にはフリーとして独立し、会社(オフィス片岡)を立ち上げる。ちょうど、バブルの終わりかけの頃だった。社名やロゴを変更する会社も多く、ネーミングやロゴ制作の仕事、商品のコピーライティングなど、いくらでも仕事は入ってきた。やがて会社は「株式会社タピーロ」へ進化し、書道とデザインが合体する広告書道、コピーライティング、さらには広告企画制作、WEBマガジン編集企画、伝統工芸取材・執筆などで順調に売り上げを伸ばしていった。

とはいえ、一番お金のかかった時期は夫の家に預けていた子どもをひきとり、二人とも海外留学をさせていた時だという。日々忙しく働き、自分の洋服を買う余裕もなく仕送りを続けていたので、ついたあだ名が「おひな様」。

「おひな様みたいにかわいいという意味かと思ったら違うんです。おひな様っていつも同じ着物を着ているでしょう? それで……」と笑う。

『何かが違う』という気持ち

ひたすら働いていたものの、仕事に対して内心忸怩たる思いもあった。コピーライターというものは、企業や商品の代弁者に過ぎない。「片岡道子」というフィルターを通して表現はするものの、アーティストとは違って自分自身を表現するわけではない。商品の良さを伝えるために、どんなに表現にこだわって制作しても、最後の最後にクライアントの社長の意見で却下されることもある。一生懸命になればなるほど、どこかで空回りしてしまう。もちろん、プロである以上、黒子なのだと割り切って仕事をしてきたが、澱がたまるように欲求不満も静かに蓄積されていった。

「コピーライターという職業についたことで『書くことで食べていきたい』という幼い頃の夢が、広い意味では叶っていました。けれど、何かが違うという気持ちがずっとどこかにありました。自分の中で納得して『これだ』と腑に落ちることを何一つしてこなかった、という思いがあったんです」

自分自身を表現できていない。心が解き放たれていない。そんな気持ちになるのは、周りの影響もあったのだろうか。実は片岡さんの家族や親戚は、歌手にバレリーナに役者と、表現者揃いであった。わざわざ習いに行かなくてもよいくらいの環境だ。プロもいればアマもいたが、みな楽しそうだった。

姉のシャンソンの発表会に呼ばれて行ったことがある。「みんないい年してフリフリのロングドレス着て、へたくそな歌を歌って学芸会みたい」と苦々しく思う気持ちと「楽しそうだなあ」と思う気持ちが、ないまぜになった。

「うらやましかったんでしょうね、どこかで」

還暦を超え、生きる意味を失った日々

そんな自己矛盾やコンプレックスを内包しつつ、片岡さんは還暦を迎えた。

離婚して長い間必死に仕事をして60歳を超えた頃、世の中の景気が落ち込んだ。景気が良かったころに寄ってきた人たちは離れていき、自宅も車も売ることに。社員も減らし、この先どうやっていこうかと思い悩む日々となる。必死に働いたのは子どもたちを育てるためだったはずなのに、娘たちからは「ママは好きなように生きたよね、母親より女、一人の人間としての自己実現を求めた人だよね」と言い放たれ、愕然としたこともあった。好きなように生きたかったら子どもはひきとらなかったはずだ。でも確かにそう見えていたかもしれないと思い、また落ち込む。

今までの人生は何だったんだろう。なんのために生きてきたのだろう。これから一体どうやって生きていけばいいのだろうか。答えは見つからず、死すら目の前にちらついた。

体調も芳しくなかった。もともと弱かった呼吸器系が、加齢もあってさらに弱くなってきたのだ。

「自分は最終的に喘息でむせて死んじゃうんじゃないかと思っていました。肺が固くなって呼吸ができなくなって肺栓症になるかもしれないと言われたこともありましたから。むせて死んじゃう前に、最後に、一番やりたかったけれど自分に一番縁のなかったものをやってみようかと思ったんです」

かつて、雑談の中で医者に言われたことも、そのきっかけのひとつとなった。

「声楽は肺にとてもいいんですよ」

「これが本当の私なの」と歌い上げる

ある日のこと。とあるライブハウスで聞くともなしに曲を聞いていると、シャルル・アズナヴールの名曲である『ラ・ボエーム』が流れてきた。別れた夫が好きな歌だった。その時、歌詞が心に沁みて、涙があふれて止まらなくなったという。

「思い切り泣いたあと、なんだか心がすっきりして。青春不完全燃焼でモヤモヤしていたけれど、燃やし尽くしたような不思議な感覚にとらわれたんです」

片岡さんが「歌ってすごい」と思った瞬間だった。

振り返ると、それまでの片岡さんは、職業的にも人生としても、裏方の役回りが多かった。何かひとつくらい、素の自分で第三者と向き合う舞台を経験してもいいじゃないか。それで喘息もよくなるならそれに越したことはない。そんな気持ちに突き動かされて、歌を習い始めた。還暦を過ぎてからの話である。

歌を歌いはじめて、片岡さんは「生きていればいろいろ楽しいことはあるんだな」という気持ちになったという。もちろん、それまでの日々の生活が常に暗かったわけではないだろう。しかし、ずっと仕事だけを続けてきた片岡さんにとって、利害関係もなく、人にあれこれ言われることもなく「面白い。楽しい」と思えることを見つけられたのは幸せなことだった。

ステージでは、つけまつげをつけて化粧をし、ロングドレスを着て常ならぬ身に変身する。かつて姉の発表会で「フリフリのロングドレス」を格好悪いと感じていた自分は、もういない。そう感じたのは、自分がコンプレックスを抱えていたからだ。

写真提供:片岡道子

自分の名前を呼ばれて舞台に立ち、自分の選んだ曲を歌う。数多くある中で選ぶ曲は、ほんの3分ほどのメロディーの中で「これが私の本当の気持ちなのよ」と表現ができる歌だ。上手に歌えたときの心地よさはまた格別である。主役になった気分だと片岡さんは笑う。

歌い始めて3年目くらいだろうか。『スカーフ』という歌を歌ったところ、聴きながら泣いてくれたお客様がいた。歌に、自分の人生を重ねてくれている。その時から、メロディー以上に歌詞を強く意識するようになった。ワンフレーズに込めた思いを伝えたいから、日本語にこだわり、原語では歌わない。

通常はシャンソンを歌うことが多いが、昭和歌謡もよく歌う。昔の歌を聞けば、その当時の風景がよみがえる。100人いれば100の違う風景がそれぞれの心の中に見えているはずだ。

「ひとつの歌が一つとして同じではなく、聴く人の数だけ物語を紡ぐわけですから、歌って素晴らしいなと思うんです」

歌を愛して、丁寧に生きる

歌を始めても、喘息は思ったほど良くはならなかった。けれどもコンサートが近づいてくれば必死で体調管理をする、それも悪いことではないと片岡さんは感じている。以前に比べ、丁寧に生きているという実感があるからだ。

これからは訳詞もしたいし、作詞もしたいと考えている。

「ヨーロッパの反戦歌は素敵なメロディーのものが多いんですよ。声高に反戦を唱えるのではなくて比喩や暗喩に満ちた格調高い詞を自分なりに訳して、歌っていければ。年老いた歌姫をテーマにした小説も書いてみたい」

もし、人生の後半に至り、何かモヤモヤしているようであれば、一度自らの胸に手をあて、来し方を思い、やり残したことは何かを自分に問いてみるのもよいかもしれない。その上で行動を起こせば、新しい世界が目の前に広がることもあるのだ。

片岡さんの生き方を見て、そう感じたのであった。

(取材・文:宗像陽子 写真:金田邦男 取材協力:アートカフェ フレンズ)

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