脇役に人生あり。
与えられたお役に真摯に向かい、
より高みを目指す

183センチの長身、がっしりとした体躯。坂東彌十郎さんは、主役を支える重厚な脇役として、評価が年々高まっている、存在感ある歌舞伎俳優だ。決して平坦ではなかったこれまでの道、そして今後の夢などを伺った。

老獪な悪役、人の良い亭主、コメディ、豪胆な武将……
幅広い演技で観客を魅きつける

2017年6月。8年ぶりに名古屋平成中村座が上演された。夜の部で彌十郎さんは『弁天娘女男白浪』で日本駄右衛門を、『仇ゆめ』で揚屋の亭主を演じた。

五人盗賊のかしらである日本駄右衛門は、堂々たる体躯で存在感を見せつける。一方、揚屋の亭主は、若い店の者たちの先頭にたち、舞台狭しと動き、踊り、回り、飛び、主役の勘九郎や七之助を盛りあげる。客席との距離も近い中村座では当意即妙のアドリブも出て、観客席がドッと受けることも。

「毎月の興行の中で、底の演技のレベルをなるべく引き上げる。その上で、昨日より今日。今日より明日と毎日工夫をして、あれこれ変えていくんです。その変化はお客様にも気づかないほどのわずかなものですが、それを積み重ねて、上へ上へと目指すんです」

取材の時にそう語っていた彌十郎さん。その温厚なイメージとはまた全く違う、舞台上の生き生きと躍動感あふれる姿に目を奪われた。

近年では、『歌舞伎NEXT 阿弖流為』の藤原稀継という悪役、『渡海屋・大物浦』の武蔵坊弁慶、『引窓』で相撲取りの濡髪長五郎、『おちくぼ物語』で恐妻家の中納言など、どんな役でもきっちりと演じる安定感から、その評価は高まっている。

坂東彌十郎 昭和31年生まれ。銀幕の大スター・初代坂東好太郎の三男。昭和48年5月歌舞伎座「奴道成寺」の所化観念坊で坂東彌十郎を名乗り、初舞台。三代目市川猿之助(現・二代目市川猿翁)のもとでスーパー歌舞伎に参加。十八代目中村勘三郎のもとでは、平成中村座・コクーン歌舞伎に参加。敵役、老け役、喜劇的な役などなんでもござれの幅広い芸域と安定感で、近年とみに存在感を増している。

「追善供養」ができるという意味

2017年8月、松竹歌舞伎座納涼歌舞伎の第二部で、彌十郎さんの父・坂東好太郎と、兄・坂東吉弥の追善狂言が行われる。主役の夜叉王はもちろん、坂東彌十郎さんその人。彌十郎さんは坂東好太郎の三男にあたる。

一幕とは言え追善興行をやるということは、彌十郎さんの実力・人気が認められたということに他ならない。

演目の『修禅寺物語』は、彌十郎さん本人が迷わず決めた。師事していた二代目市川猿翁の当たり役だったこと。父・好太郎が地方巡業のときに主役を演じた数少ない演目でもあること。それを知る今は亡き十八代目勘三郎に「追善興行をやれよ。やるなら『修禅寺物語』だな。俺も出るからな」と言われていたことなどが、この演目を選んだ理由だ。

勘九郎が「オヤジがやると言っていた役は、僕がやりますよ」と言ってくれた。猿翁も体調が万全とは言えない中で監修を快諾してくれた。四代目猿之助も出てくれるという。奇跡のようにピースは埋まり、彌十郎の『修禅寺物語』は2017年8月9日に初日を迎える。

「ありがたいことです。これでみなさんに少しでも恩返しができます」

彌十郎さんは、喜びも控えめに謙虚に語った。

次々と後ろ盾が亡くなった10代

彌十郎さんは、祖父は十三代目守田勘弥だが、ここに来るまでの道のりは平坦ではなかった。

父・好太郎は、往年の銀幕スターとして知られ、長く映画界にいてから歌舞伎界に戻ってきた人物である。「どうしても歌舞伎役者になりたい」という息子・彌十郎さんを、親戚筋にあたる八代目坂東三津五郎に預かりに出した。ところが三津五郎は、1年ほどでふぐにあたって他界。その後十四代目守田勘弥に声をかけられたものの、なんと勘弥も2ヶ月後に他界してしまう。

20歳にもまだ届かない時期にそんな経験をした彌十郎さん。ショックは計り知れないものがあろう。

後ろ盾がなければ、なかなかお役につくこともできない。しばらくは家に戻って、父のもとで商業演劇にも多く出演していた。山本富士子・大川橋蔵・萬屋錦之介・杉良太郎といった人たちとともに舞台に立った。

「その時期、父と一緒に商業演劇に出演したり、数多くの歌舞伎や演劇を観た経験は、いま思えば非常に身になっているなあと感じますねえ」

ヨーロッパの文化を吸収した30代

その後、「スーパー歌舞伎」を創始した三代目市川猿之助(現・二代目市川猿翁)の門に移る。昭和56年、父・好太郎は亡くなる前に猿翁に直々に電話をし、彌十郎さんの面倒を頼み、猿翁は快く引き受けてくれた。猿翁という人は、家柄にこだわらず多くの才能ある若い人の面倒をよく見、そして育てた。そのうちのひとりが彌十郎さんなのである。

猿翁は、伝統的な歌舞伎の素晴らしさは残しつつ、現代人にもわかりやすく共感できるテーマで観客に感動を与えるという独自路線を開拓し、後進に現代歌舞伎の道筋を開いた先駆者でもある。この頃はスーパー歌舞伎を始め、国内に留まることなく積極的に海外にも出かけた。

オペラやミュージカルなどを貪欲に吸収し、ヨーロッパで歌舞伎を上演したり、日本でオペラを上演するなど精力的に活動を続ける。それらに彌十郎さんは常に随行し、ヨーロッパで歌舞伎が非常に受け入れられることを目の当たりにした。ヨーロッパの思想・文化、そして猿翁の考え方にも、大きな影響を受けた。

現在、彌十郎さんがヨーロッパの山々、とりわけスイスが大好きなのも、実は猿翁の影響だ。猿翁とともにドイツに行っていた頃は、休みの日にはオーストリアの山々に登り、素晴らしい景色を堪能した。

「猿翁さんには、たくさんのことを教えていただきました。とりわけ心に残っているのは『我々は、人様に感動を与えなければいけない仕事だ。自分たちが感動できなければ人様を感動させることなんてできないよ。だから人の10倍も100倍も感動しなさい。きれいな景色を見て、おいしい物を食べて、自分の感性を磨きなさい』と言われたことでしょうか」

今でも休みがあれば、カメラを片手にスイスへ気ままな一人旅に出かける。美しい山々の景色や美味しい食事は、彌十郎さんの大いなるエネルギーの源なのだ。

歌舞伎自主公演で大成功をおさめる

瞬く間に30代は過ぎていった。40歳になった頃には、オペラの奥深さがわかったと同時に、オペラに勝るとも劣らない歌舞伎の素晴らしさもまた、確信していた。澤瀉屋(猿翁家)の助手としてではなく、自分でもっと海外でやってみたいとの思いを持ち、猿翁のもとを離れる。

そしてその後、彌十郎さん自身が、息子である坂東新悟とともに自主公演(やごの会欧州歌舞伎公演)においてフランス・スペイン・スイスを回り、大成功をおさめるのは約20年後、2016年のことだ。彌十郎さんは還暦を迎えていた。

「まだまだ私が若く、無謀だと思ったんでしょうねえ。クビのような状態で離れましたが、ずっと私の気持ちはわかってくださっていたと思っています。2016年にヨーロッパ公演の報告に行ったところ『やっとだね』とおっしゃってくださったんです。やられた!と思いました」

実は猿翁は、ずっと彌十郎さんのことを気にかけ、テレビなどで彌十郎さんが出演している番組は必ず観ていた。それをまわりの人から聞いたときには、思わず涙がこぼれたという。

猿翁のもとを離れ、独りで何も出来ずにいたときに声をかけてくれたのは、十八代目中村勘三郎であった。勘三郎は、彌十郎さんの一つ年上で、子どものときからくっついて遊んでいた仲。勘三郎に「いっしょにやろうや」と声をかけられ、平成中村座に参加。さらに再び海外に行くチャンスを得る。

若い頃の彌十郎さんは、毎日のように勘三郎と十代目三津五郎と飲み歩いていたそうだ。「でかいやつは早死にをする。お前はでかいから一番早く死ぬぞ。だから俺たち二人が葬儀委員長をやってやる」と言われていたという。しかし……。

2012年に勘三郎、2015年には十代目三津五郎という大きな星を、歌舞伎界は失う。

「葬式のときには『嘘つき!』とつぶやきました」

だが、彌十郎さんは、下を向いてはいない。巨星が、自分の背中を押してくれてヨーロッパ公演を実現させることができたと感じている。

「それにね。次から次へとスターが生まれる。そこに歌舞伎の底力みたいなものを感じるんです。パワーがありますね。ああ、そういうふうにつながるんだなあと」

勘三郎の長男・次男である勘九郎・七之助は言うに及ばず、三津五郎の才能を受け継いだ巳之助もまた成長著しい。2017年の2月には勘九郎の長男・次男である勘太郎・長三郎が襲名披露を成功させた。それが何より彌十郎さんには嬉しい。

「私自身は、せっかくついたお役を大切に、気負わず楽しんでやろうと思っています。ただそれだけです」

歌舞伎界を背負って立つといった気負いはないし、「そんな立場にはない」と控えめに語る彌十郎さんだが、実は夢がある。

ヨーロッパに、歌舞伎スタイルの劇場を作りたい

オペラの劇場は日本にも多くある。しかし歌舞伎の劇場は国内に10足らず。つまりそれは、世界中に歌舞伎の劇場は10もないということを意味している。舞台芸術としてオペラにも勝るとも劣らない歌舞伎。その歌舞伎をもっと世界に知らしめるために、外国にひとつ、歌舞伎スタイルの劇場を作りたいというのが彌十郎さんの夢だ。

「既存の劇場でいいから内装をかえて、回り舞台、花道、セリをつけて。歌舞伎は年に1回くらいしかできないでしょうけれど、そこのスペースを使ってオペラをやってもいい。ストレートプレイを入れてもいい。新しいものができると思うんです。僕の中ではそれをユーロ歌舞伎と名づけています。パリが一番歌舞伎文化と合うんじゃないかな」

猿翁が伝統を守りつつ新しい歌舞伎の道を開いたように、彌十郎さんもまた、古典歌舞伎にこだわっている。日本でもなかなか人気の出ない古典の『積恋雪関扉』(つもるこいゆきのせきのと)を上演演目にしたにもかかわらず、ヨーロッパ自主公演では大評判となったという。これはなぜなのだろうか?

「一幕分を解説に充てて、さらに休憩時間の最後に、物語を現地語で耳からも聞いてもらってから上演したんです。『関扉(せきのと)』というのは、簡単に言えば、桜の精が出てきて魔術使いと戦うという話。そんな昔話はヨーロッパにもあるでしょう? シンプルに解説をすれば、理解してくれるんです」

「妖精と魔法使い」といえば、ヨーロッパにも古くから土壌としてはあるものだから、すっと馴染む。マドリッド公演では、5回ものスタンディングオベーションを得、彌十郎さんは手応えを感じた。

「ぜひ生きているうちにユーロ歌舞伎を実現したいと思っています」

彌十郎家に継承する芸とは

ヨーロッパ公演を成功させた「やごの会」は、彌十郎さんとその息子・坂東新悟の会である。立役が多い彌十郎さんと違い、坂東新悟は女形を目指す成長著しい若手の一人として注目を浴びている存在だ。現在26歳になる息子の坂東新悟について尋ねた。

「20歳になるまではかなり厳しく芸についても教えました。うちには、お家の芸などはありません。これから彼が役をどうやって作っていくか、私はノータッチで人様にお任せするしかありません。息子に伝えたい我が家なりの何がしかがあるとすれば、それは『人から教わった心を大切にすること』。あとは、役がつかないときに腐らずにいてくれればと思います」

同じ歌舞伎界にいながら、手取り足取りというわけにはいかない。手放し、見守り、支え、共に歩む。それは、多くの人と別れ、そのつど多くの人に支えられ、言葉をかけられ、叱られ、教えられ、自ら努力を重ねてきたからこそ到達した「人生訓」なのかもしれない。

(取材・文:宗像陽子 写真:金田邦男 取材協力:ウェスティンナゴヤキャッスル)

坂東彌十郎・坂東新悟公式サイト

http://www.yagonokai.com/

坂東彌十郎オフィシャルブログ

https://ameblo.jp/yaju1956/

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