ラジオの世界からイベント司会者へ
話すことで人に喜びを提供していく

一ノ瀬さんは、ラジオパーソナリティー・番組プロデューサーとして1,800人以上の芸能人や著名人と共演してきた「しゃべる専門家」だ。4年前に芸名を決め、新しいサービスを始めたという。70歳を過ぎての新たなる挑戦。その可能性とそこにかける思いを聞いた。

小学校で放送部に入りマイクを握る

おっとりとした品のいい話し方。滑舌がはっきりとしており、わかりやすい。ゆったりと話してくれるので、聞いていてとても心地良い。

一ノ瀬さんの実家は、川越の塩や砂糖を扱う卸問屋だ。父親は6代目であったという。昭和18年、6人兄弟の4番目として生まれ、兄ふたりと姉、妹弟がいるにぎやかな家庭に育った。

「兄弟の真ん中だから、一番気楽。それでも目立つことが大好きでね」と、茶目っ気たっぷりに語る。

小学生のときに先生に誘われて放送クラブに入ったのも「目立ちそう、面白そう」という他愛ない動機だったが、これがマイクをもつ人生のきっかけとなった。昼休みの放送時間には自分の選んだBGMをかけ、学校からの連絡事項を流し、昼休みならではの企画を考える。皆の反応もまた、楽しいものだった。

一ノ瀬務 埼玉県出身、73歳。ラジオパーソナリティー・番組プロデューサーを経てイベント司会者に。依頼者のニーズに応えた司会で、人生の晴れ舞台を記念に残るものとして演出する。

しゃべって、企画して、営業をして

中学・高校ではテニスを選んだものの、大学で放送学科のアナウンスコースに進んだのは、小学校時代の楽しい思い出が脳裏をよぎったのだろう。大学時代は、知人の縁でラジオ番組を企画制作する会社でアルバイトをするようになる。

「小さい会社だったので、しゃべるのはもちろんのこと、企画制作・営業までもやらざるを得なかったのですが、それが今の仕事につながっていますねえ」

自分のやりたい番組を企画する。誰を使ってどんな番組を作ろうか。これくらいの年齢の人を対象にしたらどうだろう。それなら放送は何時くらいがいいだろうか。夜中の番組ならこんなのがあったらどうだろう? と、企画を練る。それが会社に受け入れられれば、オーディションをして出演交渉をする。4月と10月に番組編成が変わる前に、その企画を持って全国の放送局に売り込みに行く。営業に行った先で「朝の5分間でこんな番組が欲しいんだよ」と言われれば、ニーズに従って作ってまた持っていく。やがてアルバイト先はそのまま、就職先となった。

想像力が広がるラジオの魅力

テレビ放送がスタートしたのは昭和28年のこと。その後、昭和34年の皇太子さま御成婚により、テレビは一気に一般家庭に普及した。一ノ瀬さんが大学4年のときには東京五輪が開催され(昭和39年)、メディアの軸はラジオからテレビに移りつつあった。しかし、一ノ瀬さんの心はテレビに移っていくことはなかったそうだ。

「ラジオがやはり大好きでしたねえ。楽しいんですよ」

テレビは、映ってしまえば目の前の映像がすべてだ。しかしラジオでは、効果音一つでそこからイメージを膨らませることができる。

「たとえば、ラジオからざざーっと波の音だけが流れるとします。そこには誰かが立っているのか、いないのか。いるならば男なのか女なのか。朝日の中なのか夕焼けの中なのか。感じ方は自由ですからね。それぞれの世界を自由に広げることができるでしょう? 100人が聞いていれば100のイメージとなって膨らんでいくんです。想像の世界がとても楽しくて、一度もテレビ業界のほうに興味がわくことはなかったんですよ」

見えない相手とつながっていく

ラジオのもう一つの魅力に、リスナーとのやり取りがあると一ノ瀬さんは言う。

「リクエストの手紙に添えられたエピソードや、いつも聞いていますといったお便りを読んで、どんな人がこの手紙をくれたのだろうかと想像しながら話すのは、とても楽しいことでした」

ついにはリスナーに請われて仲人をし、その後長い付き合いとなったこともあるとか。一方通行ではない人と人とのつながりを作ってくれたのも、ラジオの世界だった。一ノ瀬さんは本名の「勉(つとむ)」から「トムさん」と親しみを込めて呼ばれ、週に7~8本のレギュラーを持つまでになる。

そんな一ノ瀬さんにあるとき転機が訪れた。イベントの司会を頼まれたのである。

イベント司会の面白さを知る

イベントの司会は、同じ話す仕事ながら、ラジオとは全く違う性質のものだった。ラジオで顔の見えない相手を想像しながら話すのとは違い、イベントの司会は司会者の言葉にストレートに反応がある。さらにその反応にまた応えていかなければならない。

「これは別の面白さがある」と感じた一ノ瀬さんは、その後はラジオの仕事も続けつつ、休日には結婚式の司会を務めるようになっていく。

月曜から金曜まではラジオで話す。土日は結婚式の司会を行う。ほとんど家にいることもなかった。子供達は仏滅の日を知っていたという。父親のいる日は、仏滅の日曜日だけだったからだ。

しゃれた芸名で70歳にして再スタート

「しゃべりのプロ」として永く現役生活を続けていた一ノ瀬さんだったが、65歳の頃に引退を考えるようになり、仕事を減らしてみた。ところが家にいても手持ち無沙汰で面白くない。人と話していないとちっとも楽しくないのだ。

ある日、そんな気持ちを愚痴混じりに息子さんに伝えたところ、息子さんはこう言った。

「何か一緒にやらないか」

彼は、企業を相手にしたコンサルタントとしてすでに3期目に入っていた。仕事は父と同じではないが、「話すことで人に思いを伝える」という意味では、共通点を見出すこともあった。いつも家にはおらず、何を教えてくれるでもない父だったが、子供の時から、ラジオから流れてくる父の落ち着いた声に誇りを感じていた。家でつまらなそうにしている姿を見て「もったいない」と感じ、マネージャー役を買って出たのだ。以降は、二人三脚で歩み続けることになる。

「息子が後押ししてくれたこと、うれしかったですねえ」

一ノ瀬さんは顔をほころばせた。

70歳を前にして今までとは違うスタートを切るために、芸名をつけることにした。「一から始めたい」という思いと「かっこいい名前がいいな」という気持ちで探して見つけたのが「一ノ瀬」。下の名前の「つとむ」は親がつけた名前でもあり「トムさん」という呼び名に愛着もあったので、漢字だけ変えて「務」とした。

経験を活かして新しいサービスを始める

ラジオの仕事は今でも本名の「伊藤勉」を通している。新しい司会の仕事は「一ノ瀬務」で受ける。

「一ノ瀬務」になって2014年から始めたのが「プラタイム」というサービスだ。「プラタイム」はキラキラ輝く人生のプラチナタイムから命名した。

結婚式、金婚式、受勲、熟年カップルのパーティー、米寿や卒寿のお祝いなど、人の集まる機会は多い。そこに素敵な演出があり、うまく進行してくれる人がいれば、そのイベントはもっと人々の記憶に残るのではないか。企画からパーソナリティーまですべてをこなしてきた自分ならできる。そう一ノ瀬さんは考えた。

「プラタイム」は、誰でもできる通り一遍の司会に終わらない。正しい日本語の使い方、幅広い知識と教養、長年培った司会者としての経験、目配りや気配りを存分に活かす。企画の段階から積極的に関わり、打ち合わせもしっかり重ね、サプライズなどの演出の提案も行う。

結婚式では時に、親戚や友人の中に結婚に反対している人がいることもある。そこをなんとか全員で「おめでとう」と丸く収められるようにすること。
ちょっとしたサプライズで、全員の心をパッと明るくしてひとつにすること。
そんな仕掛けが成功すれば「やった!」という達成感でいっぱいになる。

手がけるイベントは喜ばしいものばかりではない。一ノ瀬さんは葬儀会社とも契約をしており、葬儀の司会を引き受けることもある。

「昨今の葬儀の司会では、悲しさを強調するような無用な演出も見受けられますね。日本語の誤った使い方も気になります」

「悲しい、悲しい」ではなく、「故人の方に出会えてよかった。感謝をしている」という気持ちを、その場にいる人たち全員で共有するのが本来あるべき姿ではないかと感じ、故人を偲ぶシンプルな演出を心がける。

話すことで人が喜んでくれるなら

最近では、趣味と仕事をミックスしたような活動も始めた。若い頃に淀川長治、小森和子といった映画評論家界の重鎮と一緒に番組をやっていた経験を活かし、映画鑑賞会を行っている。行きつけのお店で、昔の仕事仲間とワイワイ酒を飲みながら、往年の懐かしい映画をビデオ鑑賞するのだ。淀川さんや小森さんに聞いた裏話や俳優のエピソードなどを司会者として披露すると、グッと場が盛り上がる。月に一度のこんな集まりもとても楽しいものだと言う。

「自分が話すことで人が喜んでくれるという場があるのならば、いつでもどこでも行きたいですよ」

穏やかながらも熱く語る一ノ瀬さんの横で、

「『司会がいることで喜んでくれるなら』と、料金度外視で仕事を勝手に受けてしまうこともありましてね」と、マネージャー役の息子さんである伊藤さんは苦笑する。

「でも、それでオヤジが生き生きとしてくれるなら、僕としてはいちばんうれしい」

年をとったからあれこれやってほしい、ではなく、自分の経験を活かしてできることをどんどん人に与える。与えるものは目に見えるものではなく、経験や知恵や愛情だ。惜しげもなく与えることで、かつては見守っていたはずの我が子に見守られ、人に喜ばれ、その喜びが自分に返ってくる。これ以上ない「幸せの巡り合い」を教えてもらったような気がした。

(取材・文:宗像陽子 写真:金田邦男)

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