「日本一かっこいいシニアの街」へ
高島平を少子高齢化日本の希望の地にしたい

日本の高度成長期を象徴する高島平団地は、今、超高齢化を迎えている。この街でシニアが生きがいを持ち、笑って暮らせることが、日本の未来を明るくするヒントとなるはず。そんな思いで活動を続けている高島さんにお話を伺った。

「選ばれし者たち」の住む団地・高島平

都営三田線・高島平駅前に建つ高島平団地は、1972年に入居が始まった。広大な徳丸ヶ原の田んぼを整地して建てられたこの団地は、当時のマンモス団地の中では都心へのアクセスが便利だったこともあり、入居の抽選には応募が殺到し、大変な人気であったという。

高島さんが結婚して高島平に住み始めたのは1980年のことだ。広い車道と歩道。碁盤の目のように整理された街並み。すぐ横を流れる川。いずれも故郷である北海道を彷彿とさせるもので、高島さんにとってはすっと身になじむ光景だった。

夫婦で住んだのは、高島平団地を三田線を挟んで見る、高島平7丁目。団地内の商店街やスーパーなどにはよく買い物に行っていた。

「あの頃の団地の住人たちには『選ばれし者たち』というオーラがありましたよ。階下の商店街に買い物に行くにもきちんとお化粧をするような、おしゃれでハイセンスな層でした」と高島さん。団地の住民たちに対して華やかさと時代の先端性を感じていた。その一方で、高島平駅に毎朝大量に吸い込まれていくスーツ姿のビジネスマンたちや、夜の帰り道に見上げる高層団地群に冷たいイメージを持つこともあったという。

くたびれ果てた企業戦士たち

高島さんは、長い間デザイン業界で働いていた。帰りはいつも夜遅く、関心のある街といえば、銀座・赤坂・六本木など。寝に帰るだけのわが街に、さほど関心はなかった。

高島平に対する見方が変わったのは、10年ほど前からのこと。50歳をすぎてデザイン業界を一度やめ、しばらく家にいた頃からだ。30年ほど前、「選ばれし者」というオーラがあったあの人たちも年をとり、高齢期に突入していた。スーツの背広をそのままジャケットとしてチグハグに羽織り、何をするでもなく図書館で時間を潰している者も見かけるようになっていた。ここで生まれ育った子どもたちもすでに大人となりこの街を離れ、かつての高島平の活気はすっかり、失われていた。

「これでいいのだろうか?」疑問が頭をかすめる。

そういえば、30代のころに訪れたハワイでは、アメリカ本土から来た高齢者たちはもっと生き生きとしていた。鮮やかな色の服を着こなし、常に笑顔で明るく、楽しそうだった。「こんなお年寄りになってみたい」。若い頃、高島さんはそう感じたものだ。

しかし、いま目の前にいるシニアたちは「こうなりたい」と思うイメージとはいささかギャップがあった。

高島芳美 昭和28年生まれ、北海道旭川出身。高島平在住37年。少子高齢化問題を抱える高島平をこよなく愛し、地域の問題に向き合いながら、豊かなコミュニティ作りに取り組む。合同会社ユア・ランド代表/地域コミュニケーター。社会創発塾第4期生。

地元に友達ができて、地元愛に目覚める

街のシニアたちの姿に戸惑いを覚えつつ、「ダイニングバーでも開こうか」と考えていた高島さんは、まず居酒屋でアルバイトを始めた。好奇心の塊のような高島さんは、なんでも体験することで新しい世界が広がることを知っているのだ。

アルバイトを通じ、バイト仲間の若者と仲良くなる。地元のカラオケパブで飲み、歌い、地元の飲み友達がたくさんできる。「くたびれた人」「さびしい人」がたくさんいる現実もあったが、次第に地元にもすばらしい人たちがたくさんいることを知った。

「そういう人がポツポツといると、周りも次第に影響されていきます。さらに増えれば街全体の雰囲気が変わってくるはずなんです。点が2つになれば線になるし、3つになれば面になる。そうすると、なにか変化が起こりますよね」

地域のゴミ拾いからスタート

8ヶ月ほどたって居酒屋のバイトをやめたころには、「なにか地域のためにできることはないか」と思うようになっていた。いつの間にか「自分だけは他人と違ってかっこよくありたい」という気持ちが「街ごとかっこよくありたい」という気持ちに変わってきていた。

高島さんのいう「かっこいい」とは、どういう意味だろうか。
聞いてみると「元気で周りに気を配れること。おしゃれでいること。人間としての尊厳をもつこと」と即答した。

地域のために何かしたい、という思いで、まずは大東文化大学の「高島平再生プロジェクト」にスタートから参加。高島平の抱える少子高齢化問題を共有し、解決アイデアを考えた。

毎月、早稲田大学のシニア社会学会では、高島平の住人としての現場感を社会学者に伝えた。元参議院議員であり、東京大学・慶応義塾大学教授でもある鈴木寛氏が塾長を務めている「社会創発塾」という若い世代の集まりでは、塾生の一員となり、どうやって社会を変えていけるかを、ともに探っていった。

そういった活動で得た知見を持ち帰り、さまざまな場で実践してまたフィードバックしていく。その積み重ねの上に解決アイデアはあるのだ。

一方で地元では、まず街のゴミ拾い活動をスタートさせた。「美咲会」と名づけ、2010年に始めたこの活動も今年でもう7年目になる。

「ゴミ拾いをしていると、人が集まって来るんです。いっしょにやろうと言ってくれる人もいるが、話し相手が欲しい人、困り事があって相談に来る人もいます。街の問題が集約している現場です」

合同会社を設立し、地域の活性化を推進する

2012年には合同会社ユア・ランドを立ち上げ、「高島平『人と街をもっと元気に』運動」を通じて、高齢者向けのiPad講習会や気軽に立ち寄れる相談拠点づくり、ミニコンサートなどを次々と実施した。デザイン業界に長くいたことを活かし、神楽坂にあるデザイン会社の営業部・プロデューサーとしての肩書も持ち、これまでの地域活動を元に、介護や福祉系販促の企画・デザインを請け負うことも多い。

また、高島平をもじって「ダイラバンド」なるバンドのメンバーの一員として、週に一度の仲間との練習を欠かさず、毎年、地元の団地祭りでは演奏披露もしている。

「音楽を聞くと、人はパッと表情が明るくなるでしょ。それがうれしくてね」

あらゆる活動をしつつ、高島さんが気をつけていることは「自分の強い思いを相手に押し付けないこと」だ。「大切なことは相手の気持ちに沿うこと。いかに自分は聞き役に徹することができるか」を心がける。

たとえば、地域のコミュニティカフェに行っても楽しくないという人がいる。コンビニやスーパーばかりになって、人と話していないという人もいる。高島さんは、そんな人がポツリポツリと本音を話せる居場所を作って、耳を傾け、相談に乗り、できることをする。

この日の取材場所は、高島平7丁目にある「福祉の森サロン七福」だった。2016年12月に板橋区社会福祉協議会の許可を受けて開設。メンバーの最高齢は93歳になる加藤さんだ。自分たちでサロンを立ち上げ、自分たちで居心地よい居場所を作っている。こういったサロン立ち上げのサポートも高島さんの役どころの一つだ。

「七福」は、週3日サロンが開かれる。おしゃべりや折り紙をしたり、皆で歌ったり。この日も三々五々、人が集まり散じ、思い思いの時間を過ごし、会話と笑いは絶えることがなかった。訪れるのはシニアばかりではない。この日は赤ちゃんをおんぶした子育て中の母親も参加しており、赤ちゃんは人気者だった。

「いくら人がいっぱいいても、孤独だったら過疎地にいるのと同じです。日頃の人間関係がしっかりしているこういうコミュニティを作っておけば、たとえ災害があってもきっと大丈夫じゃないかなあと思うんですよ」

その場に集まった人たちがなごやかに話しているのを見ながら、高島さんは目を細める。

福祉といえば「お年寄りのために何かしてあげなければ」と思いがちだが、実はそうではなく、シニアが自分たちで何かできる場、世代間交流ができる場を作ることが必要なのだろう。

高島平の今が日本の未来をつくる

高島平団地ができてからすでに45年。今、65歳以上の割合が41.1%、15歳未満は5%。一人暮らしは53.2%にも及ぶという。まさに少子高齢化の日本の未来の縮図と言える。

だとすれば、高島平に今住むシニアが、生きがいがあり、話をする友人がいて、身支度を整えて出かける場所があり、明るく前向きに生きることができていれば、日本の未来も明るくなるはずだ。

「高島平のシニアは、日本一かっこいい」という時が来たならば、「日本のシニアは世界一かっこいい」となるかもしれない。

そんな日を夢見て、高島さんは今日も地域で声をかけ、耳を傾け、笑顔で語り合い、忙しく動き回っている。

(取材・文:宗像陽子 写真:金田邦男)

合同会社ユア・ランド

http://www.yourland.co.jp/

株式会社アズワン

http://az1.co.jp/

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